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無構造の暴政

2010
05-25
でね、ジョリーンの「無構造の暴政」(The Tyranny of Structurelessness [revised version])を森川さんが訳してA誌13号にのっけてるんですが(ネット公開版もあります、てか、ネットでの公開の方が先です)、これまたびっくり。おれ、これをアンチョコにして今回の原稿を書いたんじゃないかというくらい内容が本質的にかぶっているような気がしてヒヤヒヤしてるんです(笑)。でも書く前に翻訳読んだりしてませんけどね。

そりゃどんなんだよって、少なくともジョリーンの方はタイトルで内容の予測がつく人もいるのでは。わたしは社会運動のある局面でだれも責任をもとうとしないのに事態が推移していく構造をとらえて〈無決定の決定〉という書き方をしましたが、いいかえるとそれは〈未組織という組織性〉がもたらす災厄でもあるんですよね。同じくこれを「暴政」としたのがジョウ・フリーマン(ジョリーン)の分析といったところでしょうか。や、ジョリーンの分析のほうが単純明快で分かりやすいんですけどね。わたしは分かりやすい文章には不安になるたちで、どうしても内へ内へとこもる書き方で、人をウンザリさせるんだと自覚しているのですが……

あ、「無構造の暴政」は、これ「現場」にいた人の文章だってすぐに分かります。むしろ「現場」で苦労しなかったらこんな分析できないと思われ、というような内容です。ジョリーンのかかわった範囲でのフェミニスト運動の内実についてはこちとらまったく分からないのですが、それでも普遍性をもつ内容として読みました。読んでて胸しめつけられましたよ。
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A13

2010
05-24
A誌13号。拙稿ではしつこく「運動」における主体性の問題、主体間の関係性について検討しています。G8がらみで救対のことにふみこんで書いてるんで、大方には「防衛」上の観点からの批判もあろうかと覚悟しています。
 関連して、「のびのびイルコモンズデモ」のプロパガンダに胚胎した(無自覚な)差別性について批判もしましたが、それへの反批判があるなら期待して待とうと思います。が、被弾圧者のうち仲のよいお友だちだけをクローズアップさせた身びいきに正当性などあろうはずがないのですけどね。というようなことも含めて、運動過程での組織化の失敗と、それにからんだ救対の敗北について言及しました。
 わたしはあの運動でほとんどすべてにおいて「負けた」(自分に)との総括に収斂しかかっています。もちろん自分以外の誰かとの競争での勝ち負けとかいうくだらぬゲームごっこについての判断としてそう考えているのではありません。自らの惰弱ぶりに負ければそれでゼロかといえば、そうとも思いません。つまづくことにより考えるきっかけを誰あろう自分自身に与えられるからです。つまり問題はもっと根深いもので、社会運動に際会しての自ら(自分たち)の力の行使についての自覚と分析が不足していたのだという当然の認識にまでたどりつくことになります(力を行使しないことが反権力・反権威主義なのではありません)。そうして敗北はきちんと認めて追及しないといつまでたっても同じことの繰り返しで、一人相撲の域をでることができない。繰り返しが悪いとはいわないけれども、せめて他山の石として参照できるものになればなと思っています。いや、「運動2.0」「反権威主義」などとはしゃぐばかりで、あるいは傍観者をきめこんでただのりするばかりで自らを批判的に省みることをしなかった人々にこそ検討してもらいたいと思っています……だからそういうのが気負いすぎだって? そうかもしれません。
 ともあれ、社会運動における力の行使(たとえ自分は不当な力を行使しない、だから「反権威主義♪」と思っても、集団的な力動を掌握する人々の行動を黙許・追認するという意味で力動の構造を支える一因子として同様、つまり「反権威主義」ならぬ「半権威主義」を実践したのだという自覚が必要)という視覚から書いたつもりですが、それで特集の「権力」に沿うことができたのかどうか心もとないところです。でもほんとは反権威主義者なんかどこにもいねえんですぜ、ということは声を励ましていいたい。反権力なんぞとぬかしさえすればてめえが反権力者だといわんばかりの販促活動にゃ泥をぶっかけつづけます。これは自戒をこめていうんですが、分析やら思想だのというものは行動が伴ってこそ意味があるのであって、その逆じゃない、ってあたりまえのことですね。
 しかしほんとにしつこいなとわれながら呆れますが、あとは有志総括向けに公表用の文章を書いて、サミット反対運動でトホホの記録はようやく一区切り。になればいいな。(これまで書いたものに批判があればなお検討しつづけます)

あ、ページ数が爆発して240ページを超えたため、今号は1500円です。たけえしブあつい。

デモ「申請」雑感

2010
05-21
やーデモ「申請」おつかれさまです。園さんが「申請」をめぐることを記録されていますが、少し思ったことを。

園さんが説明されている「申請」とは、都内でのケースですね。公安条例を公布している自治体は多いのですが、都道府県レベルで条例がない場合は市区町村レベルで制定していたりと、全国一律ではありません(公安条例は俗称で、「集会」「集団行進」「集団示威運動」「に関する条例」というような名称がほとんどです)。でもすべての自治体にこの条例がしかれているわけではなく、存在しない自治体もあります。公安条例がない自治体では、道路を使用するため現実としては道交法上の届けが必要になります。(無届けでやるとおそらく道交法でひっかけられるでしょう)

「申請」関係についてまとめると、以下のとおり。

公安条例が存在する自治体の場合
・デモ許可申請書の届け先 条例を制定している自治体レベルの公安委員会(東京の場合は都公安委員会)
・窓口 デモ出発地の管轄署(の警備課)
※申請書を受理するのはあくまで公安委員会であって管轄署・都道府県警察ではないことに注意!

公安条例が存在しない自治体の場合
・道路使用許可申請書の届け先 デモ出発地の管轄署交通課

園さんはデモ「申請」の「行く宛ては交通課」としていますが、条例には担当課の規定はないものの実際にでばってくるのは警備課です。道路を使うんだから交通課じゃないの?と思うのが、自然な感覚かもしれません。警備課が担当として出てくるのは、警察がデモを「治安維持の対象」としてとらえているからです。申請者およびデモ参加者を「警備」するためではなく、「公共の安寧秩序を乱す輩をとりしまる」ために、警備警察が「申請」段階からでてくるわけですね。おまけに背後には公安警察がいる。(警備警察の本質は「警備公安警察」であることに注意しましょう)

デモコースが複数の警察のナワバリ(管轄)にまたがる場合、警備で出動するというたてまえの関係署を調整するのは都道府県警察の警備の本部です。そのため管轄署に届けにいっても本部とのやりとりが発生するとかでややもすると待たされます。ほんとは警察署はすみやかに申請書を公安委員会に届けるべくすぐに受け取って(警察署による受理ではなく「経由」としての預かり)、現場の調整なんぞは勝手にやっとけばいいんです。他署・本部との調整などに申請者がつきあういわれはありません。最初から都道府県警察の警備本部にのりこんであらかじめ調整させるやり方もありますが、申請書はあくまで「開催地を管轄する警察署を経由して」ですから、つくりあげた書類を管轄署にもっていかなきゃならんので、二度手間は回避できません。なんつー不合理な制度と現実。

ところで、「申請」のために管轄署に行ったケースで、ときに警視庁本部から警備課(の警備連絡係)がわざわざ管轄署にまででばってくることがあるのは、警察にとって通したくないデモコースだった場合に、おどしたりすかしたりして申請者を翻意させられないかとがんばりやがるからです。なれないうちはダマされてくれるだろうとか、ビビらせりゃしたがってくれるだろうとか、勝手な胸算用をしてるわけですね。わたしはデモ「申請」それじたいが予防弾圧にほかならないと考えますが、その理由がこれです。もちろん管轄署レベルでも申請者のことをなめきってカマかけてきたりしますから、弾圧者として都道府県警察本部との本質的な違いはありません。

また、(デモ「申請」の「許可」「不許可」を)「誰がどのように決定しているのか全然見えない」と園さんが指摘しているのはまさにそのとおりです。ただぶっちゃけてしまうと、実質的に決めているのは都道府県警察の「警備公安警察の本部」だと思います。公安委員会の庶務を担うのは警察官であると警察法が規定していることもありますが、交通事情など含めて「現場」のことなど公安委員は知ったこっちゃないため、「現場の警官(のエラソーな部分)」が判断しているフシが濃厚なわけです。以前、わたしが東京の新宿警察署で「申請」したときに警視庁からとんできた警備連絡係に対して「結局あんたたちが判断してんだもんな」といってもニヤっと笑って否定しませんでした。つか、このカラクリ、みんな前提として「申請」してきたんですよね。

いずれにしても、警察がその現実の振る舞いによってデモを許可制にしてしまっていることに変わりはありません。昨今、「事業仕分け」がマスコミネタになっていますが、ろくに仕事してない公安委員会も解体したらどうかと思います。警察をとりしまるためにつくられたはずなのに現実にはまったく機能していない。機能していないのに場所をとり、委員が「選任」され、かたちだけ委員会を開いてよしなしごとを委員が「決済」したこととしている。そのために予算がつけられ税金があてられる。制度上も警察が野放しのままデモをとりしまっているかたちにしてしまうほうがよっぽどスッキリしています。いまのねじけた法制度は人々の目をくらます煙幕として機能しているのですから、このように制度も現実の暴虐にあわせることにすれば、日本の統治システムおよびそのテクノロジーがいかに人間の行動を不当にしばりあげているかがよりハッキリすると思うのです。

そもそも条例が道交法の上前をはねるようなありかたそのものがオカシイのですが(道交法のあみをデモにかぶせようとするのもオカシイ──道交法読んだことある人なら分かるはず)、その罠にひっかかったままの状態で公然行動は闘いとられてきました。たたが公然行動されど公然行動、なめんなよ。

正義の味方なにするものぞ

2010
05-20
「神戸学校」(バックはフェリシモという企業)によれば、前世銀副総裁どのは「政治力のない貧民のために正しいことを正しく行う勇気あるリーダーたちの味方、正義の味方になろう!」と決意して世銀に入ったんだと(出典)。さてでは代行主義の業火に焼かれるばかりの「政治力のない貧民」はどうするか。ゆくべき道は千年の秋をさかのぼろうとする自力救済の復興運動であるか。われわれの隣人であるイスラーム主義の運動もかつては(そしていまも)そうした性格をもっていたはずだ。かりに世銀をめざしたようなエリートのいう「政治力」が「近代以降の力」であるなら、われわれ「貧民」に必要なのは「近代以降」にあって「近代以降の以降」へのアクロバットでなければならない、なんてな。少なくとも、金融寡頭制がもたらす害毒の反省ぬきにえらそうなことをぬかすエリートは問答無用でたたきのめそう。われわれには僧兵になるべき理由と怨念があるのだ。

かごの鳥のうたうもの

2010
05-18
「東アジア反日武装戦線」の一斉逮捕から35年
メンツに刮目。アレフの広報部長と元さそり。5/29。

いまごろフォロー:朝鮮学校への差別なき速やかな「高校無償化」を求める署名

2010
05-18
via GrlldChsAsp
朝鮮学校への差別なき速やかな「高校無償化」を求める署名 Word (朝高連絡会より) 東京教組のサイトでPDFになってるけど、こっちは公式かどうかは知らない。出力するんだから関係ないか。集計期日は6/30!

ワンコインカレーを求めて仇敵を眺む

2010
05-18
へい。今日のひるめしは500円以内でくえるカレーだ。あるでかい通りに面したお店のカレーなんだけど、店からそう遠くない場所に某警察署がそびえてる。めずらしくもない。でもあれ? なんかこの景色見たことある……って数年前に汗だくになって激励行動やった署じゃん。特定されるとやなんで詳しく書かないけど、あーーーーーーーあ、なんで思い出さなくていいこと思い出すんだよおめーはよー。カレー投げつける勇気もないので(それでなーにがギリシャだっつの)ムカムカしながらおとなしくただいま。あ、カレーはまあまあだった(食べログではけなされてたけど、おれには上等)。

門前の小僧習わぬ経を読めず

2010
05-18
あら、そんな単純なもんじゃなかった? スマヌ。

しなしなのかき揚げはまずい、だがそれでいいのだ

2010
05-17
ひさびさにめしの話。いまの職場のあたりはひるめし物価がやや高い。ちょっとこじゃれたところはたいてい1000円じゃすまなかったりする。階級が違うんだよな(事務所が引っ越す前はもっとクラスが違ってて借りてきた猫みたいになってた)。しかし小遣いのたりなそうなサラリーマンもきっと多いに違いない場所柄、そんな店ばかりでもなくて、チェーン展開の牛丼屋やラーメン屋やカレー屋とかがある。あれ、カレー屋は単独かな。いずれにしても、ここらはワンコインでめしをくえたりする。

しかし、びんぼーめしはだいたい味が濃いだけですぐに飽きてしまったりする。めしに頓着していないつもりとはいえ、あきあきしたままのひるめしは労働力の再生産にもひびくような気がする今日このごろ。いや、そんなことないか。うまいめしとされるものくったって貧乏ジャンク舌には味がわからないし、腹に入っちゃえばいっしょじゃん。え、違う?

で、今日はマンネリからはずれるべく少し歩いて探してみると、あったよチケット購入制の立ち食い系そば屋が(実際は座れる)。もりそば一枚にかき揚げ丼のセットで500円。まずい(笑)。かき揚げはつくりおきだからヌルくてしなっとしてて油がはらにもたれそうだなというあんばいだし(油とタレが衣になじみすぎてヘロヘロ)、なにもいってないのにタレもじゃぶじゃぶにかかっててシャリがあますぎるよ。そばは…ほとんどかおりがしない。めんつゆに負けるってどういうこと。そういうこと。がんばってすすってもかおりがたたない。だからなんだよ。たべるよそれでも。貧乏人はね、たいしてうまくもない、いや、はっきりいってまずいめしでも腹がふくれりゃいいんですぅだ。というようなことをわざわざ書くんだからやっぱり悔しいんだろうなおれ。もちろんそば湯はちゃんとすすって店をでた。

弁当つくれってか。そんな余力ねーもんねー。労働者は1分でも長く寝るのだ。寝ても夢なんか見ないのだ。

だいたい自宅でめし用意するっても銀シャリ、みそ汁、つけもの、納豆、それでおしまい。大豆サイコーったってこれじゃあきらかにバランス悪い。魚焼いてもいいんだけど腐らせるし(帰宅までにめし屋でめしをくってしまったりすると、日持ちの悪いのはすぐにダメになる)。惣菜は値がはるしねぇってどこまでケチってんだ。そこで夜遅くのスーパーで見切り品をあさるってか。でもそのころは疲れてるうえに空きっ腹でイライラしてるから、ついついうまくもないめし屋に行っちゃって、もう弁当のべの字もない。

人の道

2010
05-17
日曜日ひるさがり、また労働(笑) ゼニが必要な事情があるわけだけど、資本主義を支える柔軟かつ従順なワーカホリックぶり、自分でもいやんなっちゃう。仕事好きといえば好きなんだけど、うまくサボりつつこなすような状況をはやくつくらないと。

で、夜遅く帰宅してややカルチャーショックな状況を認識。支援してもらったらお礼をいうのが当然です。選別=差別的対応は論外。力量の問題があるなら任務分担すればいいだけ。人として当たり前のことができなければはっきりいって負けます。基礎的な関係づくりができないという意味で自分に敗北するのです。では、おやすみなさい。


:D

noiz

Author:noiz
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