mukofungoj ĉiuloke

 変形菌はどこにでも
 

「徴兵制の方が民主的」?

「韓国の反徴兵運動について思い起こすことども」へ次のようなコメントが寄せられました。
tari-G これは代替措置の問題。|軍を持つ国家の場合、そもそも徴兵制の方が民主的というのは忘れられがち。勿論代替措置は必須。
代替制度導入は過渡的要求としてありうると思います。しかしそれで人間を差別する軍事という問題にカタがつくわけではありません。
 募兵制度はいうまでもなく「国民国家に支配された底辺階級からなる軍隊」をうみだします。この文脈からすれば、徴兵制度が「皆兵」であるところに「より民主的だ」と感じる心情が出てくることもまああるのだろうなと思います。しかしそれはある陥穽にはまりこんでいます。
 というのも、歴史的にも、また現実のこととしても、徴兵制は圧倒的に「男性皆兵」でありつづけてきたからです。現状で女性も徴兵の対象となるのはイスラエルとマレーシアくらいで、世界的にみてごく少数の存在です(しかもマレーシアでは女性は男性と同じ軍務につくわけではない)。
 近代国家は男性を徴兵し、その代償として男性に選挙権を与えることで「男性だけに平等な国民」をうみだしてきました。近代国家がうみだした国民パラダイムには、男性による社会支配のイデオロギーが貫徹していたとするほかないでしょう。
 〈国民=男〉という人間の断絶を捨象して(おそらく募兵制より)「徴兵制の方が民主的」というなら、性差別の問題を見落とすことになります。元記事では、韓国でも男性のみの徴兵であり、それが男性固有のキャリア形成に結びついていると指摘しましたが、そうした男性性の優位という〈国民軍的社会〉の特質をそのままにしておいていいとは思えません。
 では、女性、あるいはセクシュアル・マイノリティもひとしく徴兵されればいいのでしょうか。性別によらない「国民皆兵」であるならば、その限りにおいて「平等の拡張だ」とは主張できるでしょう。しかしそれはあくまで「国民の平等」です。国民のあいだだけに「民主的」なるものとは、国民国家的な制約のもとにありつづける「なにか」にすぎません。支配的資本が圧倒的に超国籍的に活動しているいま、そして現実の問題としてそこに軍事が密接にからみついているのに、一国主義的な単位で「民主的」といってすむのかどうか。
 さらに代替措置についてですが、韓国に徴兵の代替措置が制度として導入されれば「反徴兵という問題」が解決されうるかといえば、そのことについてもすんなり同意できません。これも元記事で弁別しておいたことですが、すくなくともアナキストを自認していたブンブンは、代替制度が導入されたとしても、その代替サーヴィスに服務することじたいにも疑問を感じていました。結果として「かれ」は特例的に国家の方から「いらない」とはじかれたので、「代替服務も拒否」は現実の問題とはなりませんでしたが、なりゆきによってはそうした厳しい問題が提起される可能性もあったわけです。ブンブンが提起しかけた問題は、代替サーヴィスへの服務もまた、軍事制度にくみこまれた「国民としての奉仕」の本質をもちつづけるということでした。いいかえれば、「かれ」は徴兵制度をとおして国家主義の問題を提起していたということです。
 「反国家」ないし「アナキズム」という姿勢に親和的であるなら、それが仮定の問題であるとしてもやはり重要な問題としてありつづけるでしょう。じゃアナキストなんかやめちまえば問題ないじゃんということなら、もちろんこれ以上議論にはなりません。(なおそれでも国民性・性別をとわないパルチザン論や抵抗権論についてならまだ脱線できますが──ただしこういっておいてなんですが、自分が武装する気もない以上はしょせん無責任な放言にしかならないので、あまりそうした議論をする気にはなれません)
 
 

民主党による立憲主義の否定と「戦争国家」への道

近代民主政における憲法は国家権力の暴走を抑止するために存在する。したがって、憲法は権力行使にたずさわる人々が遵守すべきものとしてさだめられる。それは「国民」が守るべきものとしてあるのではない。この立憲主義の原理は日本国憲法においても貫徹する。
第99条

天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

The Emperor or the Regent as well as Ministers of State, members of the Diet, judges, and all other public officials have the obligation to respect and uphold this Constitution.
この数年来、自民党議員などは「国民の義務」を憲法に明記させようなどと、およそ近代立憲主義の本義への無理解をさらけだしながら改憲論議なるものを行ってきた。まるで「国民」がどのように統治されたいのかをさだめるものが憲法であるかのような倒錯的な「論議」だ。あまりにデタラメすぎて話にもならない。しかし憲法が「人間は暴走する」という歴史的経験からくる現実的解であるなら、このような無理筋の立憲主義の破壊策動にはいちいち闘わなければならない。
 むろん、象徴天皇制に反対のわたしは日本国憲法の改憲そのものを否定しない。しかし改憲論議のドサクサにまぎれて、国家を縛るものという憲法の根幹をゆがめさせてはならないとも考える。これをゆるせばいつか来た道をたどることにもなるからである。旧帝国軍隊は、軍部大臣現役武官制をてことして軍部独走政権を合法的に獲得していった。全体主義は合法的にやってくる。このことを「国民」は忘れようもないはずだ。

いま、与党民主党の鳩山由紀夫首相などが「憲法解釈は内閣が行う」とのべている。これは立憲主義への敵対である。法令の執行状況などについて政治家が官僚に答弁させるのは「議会制民主主義」のしくみとして当然のことだが、官僚答弁を原則禁止にしようと民主党の小沢一郎がわめきつづける目的はどこにあるのか。究極的には内閣独裁ではないのか。こうした民主党実力者の動向に対する造反のきざしは同党内部には見えない。連立をくむ他党も「脱官僚」のマジックワードに踊らされたままだ。なるほど、「変革」がはじまりつつあるといっても過言ではない。
 内閣であれ内閣法制局長官であれ、憲法の「解釈」主体が政府であることに変わりはないが、官僚答弁禁止の策動はある局面でこの政権がもつ本質をもっともあらわにする。つまり、戦争にまつわる国家の本質である。内閣法制局はすでに自衛隊の海外派兵を条件つきで合憲と「解釈」したが、集団的自衛権行使や国連安保理決議下の自衛隊の武力行使については依然として違憲「解釈」であり、「戦争国家」化へのブレーキが名目的にではあれ存在する。しかし現政権がいま躍起になってしかけている「脱官僚依存」の政治劇場に内閣法制局もくみしかれるのであれば、このブレーキすら解除される。「脱官僚依存」の煙幕のもとに立憲主義を扼殺し、内閣法制局長官を官僚として黙らせ、政治家に「解釈」を行わせるとなれば、「戦争国家」への水路はいっきに開かれる。
 衆院戦での勝利につづき、民主党がきたる参院戦で単独過半数の勝利を手にすれば「一丁あがり」ではないか。
etikedo : 憲法 反戦
 
 

人生問題としてのパンク(笑)

いまさらの反応なんですが、勤労しない理由〜オールドパンクとニューパンク〜(1)(2) via "おっさんパンク"vs"フーディーズ・パンク"

ふええ、アナーコ・パンクって「旧パンク」なんだ?

でもそれってたぶん近視眼的なものの見方からくる誤解だと思うな。スクウォットや社会センターはCRASSのダイアルハウスだけじゃないんだぜ! たまたま大方の目にふれないだけで、いまでもアナーコ・パンクは世界中にうじゃうじゃいる(アフリカではきかないが)。もちろんオールドばかりじゃないぜ。
 たしかに、かつてCRASSなんかがメジャーにいったアーリーパンクスを「punk is dead」としてこきおろし、サッチャーのマルビナス戦争(フォークランド紛争)に反対して社会的にセンセーションをまきおこしたようなポビュラリティはいまのUKアナーコ・パンクにはないかもしれない。CRASSやそのあとにつづいたアナーコ・パンクスはロード・プロテスト(road protest)や「シティを止めろ!(Stop the City!)」などのUKにおける反資本主義的な社会運動や、反戦・反核運動とクロスすることでその活動の幅を広げていたともいえるけれど(というかCRASSあたりのアナーコ・パンク運動の全体像は当時の社会運動を理解しなければ把握できない)、アナーコ・パンクの動きが社会運動それじたいの消長に影響されたのはまあ当然だろうね。それに拠点個々の歴史をみるなら、「すたれたな……」という感慨をもつオールドパンクスがいても不思議じゃない。だってひとつの拠点はいつまでも続くものじゃないから。
 だけど、実勢としてはアナーコ・パンクの運動はむしろ世界的に拡大してるんじゃないかな。ヴィールスがあっちこっちにバラまかれてもう消毒のしようもないというか。ラテンアメリカやアジアにもむかしっから飛び火してるし。これってパンクだけに限定される動きなのではなくて、オートノミスト、アナキスト的な運動の動向にからんでる。社会運動、もしくは文化/政治運動の消長にともなってパンクスの“DIY文化”運動もしつこくはびこりつづけているってわけだ。ただしUSの場合は、ヨーロッパから飛び火してきたスクウォッティングは1980〜90年代が全盛で、いまではジェントリフィケーションの波にあらわれてごく少数が残ってるだけだという状況についてはいっておかないとまずいかも。それでも ABC NO RIO とかが拠点として頑張ってる。

上記の「勤労しない理由」では、UKにおけるアナキストの運動がソフト路線に変わってきたととらえられているけど、それは一部の動向だけを見た判断ではないのかなぁ〜って思う。もちろん CLASS WAR のようなドンパチ派がいったんは下火になったことも事実だけれど、1990年代後半から直接行動にまたもや火がついてUKの治安弾圧テクノロジーがより進んだという状況をふまえないと。シティ暴動とか反サミットとかメイデイとかで一部の連中はやりたい放題だったわけだし、今年の3月・4月にもロンドンで反G20闘争がかなりの規模でまきおこって、rampART というスクウォットが弾圧をくらってたのも記憶に新しいところだ(rampART はロンドンにある DIY 文化拠点としてパンクもすくなからずクロスしてたけど、今年の10月15日に強制排除でつぶされた)。こういうDIYパンクとクロスする拠点はUKにはけっこうあって、もともとはアナキスト系の福祉受給支援の運動体がはじめた 1 in 12 Club もそのひとつ(他所さまの訪問記「1in12」)。ここはギグスペースもあってヨーロッパのDIYパンクにはよく知られた拠点だ。こうした自主管理の拠点はつぶされたり自滅したりしながら、同時に新たにうみだされつづけている(パンクとして?ロンドンにこだわるなら Autonomous London からの情報をたぐってみればいい)。こうした拠点をめぐる攻防にはDIYパンクス、アナーコ・パンクスがすくなからずかかわっている。
 行動するパンクスが社会運動に密接にからんでいる好例として、ダンマルク・ケーベンハウンの Ungdomshuset(若者の家)をあげてもいいだろう。悪名高いノアブロ地区のヤクトヴァイ69番地にあったスクウォット拠点の Ungdomshuset は、2007年3月1日に警察の空挺部隊が急襲して陥落したけれど、それで数日の暴動となってダンマルク政府・ケーベンハウン市政府(コムーネ)に衝撃をあたえている。だってヨーロッパ中からアナキストやらアウトノーメンやらパンクスやらがワラワラとわいてきて結集するわ、14かそこらのクソガキまで独自のデモ隊列くむわで大騒ぎだったのだ。さすがにこんくらいの歳だと暴動の主体にはなりえないけど、それでも未成年が何人もパクられてた。このスクウォットをめぐる闘争は、「暴力反対」の「大人」連中からはおさだまりの非難があびせられた。ききわけのないガキってわけ。でもガキンチョパンクスの親世代にあたるヒッピーやアーリーパンクスなんかも結束して、Ungdomshuset を支持する大デモを敢行していて、ガキの闘争と矮小化することもできない。ここらへんがヴァイキング末裔のふところの深さ?というのか「非常識」というのか「野蛮」というのか(笑)、警察と市街戦さながらのイケイケドンドンの衝突を起こした連中が市当局に代替物件(ドロテアヴァイ61番地)を提供させるという一定の勝利をえてしまうところに、アウトノーメ的な文化/政治運動の強力さがある(もちろん暴動で実刑確定の被弾圧者がでた)。まー街そのものがスクウォッティングだっつうクニスチャニア地区がすぐ近くにあるくらいだから。で、当然 Ungdomshuset にはパンクスがなだれこんでいた。Ungdomshuset はヨーロッパ最大規模のDIYパンク祭 K-Town Festival(現 Shittown Festival)の会場だったんで、パンクスが黙ってるわけがなかった。てゆーかそもそもアナーコ・パンクスはアウトノーメ的な運動の担い手だしね。
 ま、なんにせよ、アナーコ・パンクはジジイだけじゃなくて若いもんもいまだにたくさんいる。
 
どうも話が脱線する。で、パンクの階級問題についてちょっと。アーリーパンクスの一部がアートスクールだのの出身だという話をもってきてパンクはもともと労働者階級のものじゃないんだってまとめたがる傾向があるのは知ってるけど、問題はそのあとなんじゃないかな。とっぱながプチブル的だろうがそんなこたぁどうでもいい。連中はどうせすぐに撤退したんだから。問題は、パンク(あるいはそのあとにつづいたDIYパンク)といわれるシーンに実際にいたのは大多数が貧乏な労働者もしくは失業者だったわけじゃん。パブロックとかとの交差だって、UKプロレタリアートの文化ぬきには考えられないことだし。いいじゃん、もう。受容した圧倒的多数がプロレタリアだったんだから、あれこれいったってしょうがないじゃん。
 ヨーロッパの一部じゃ失業給付が手厚い(=ぬるい)ってことで「労働者階級うんぬん」も神話にすぎないんだってな話にもなるんだろうけど、でもそれって労働者の先達による闘争の成果をうけついでいるだけのことで、パンクを受容したのがまぎれもなく明日なんかないプロレタリアートのクソガキどもだってことにゃ変わりはない。プチブル連中が流行にのってすぐにどっかにいっちゃったのはまあご愛嬌。あおられてパンクにいきついたのが未来に希望ももてない連中で、それがアナーコだか、オイだか(「左」のオイパンク集団──RASH: Red and Anarchist SkinHeads みたいなのもいるけど)にアウトプットが分かれるということはあっても、基本的にみんなロクな仕事もない不安定なプロレタリアかドロップアウト組。商業パンクとそのグルーピーはどうだか関知しないけど、すくなくともDIYパンク、アナーコ・パンク、ハードコアパンクは層としてほとんどがそう。
 それが明確にゲットーの文化として成立してるのかどうかってことで、これまた問題にされるんだろうけどね。アナキズムなんてインテリのものじゃん? みたいな。フーディーズのあっけらかんとした小理屈ヌキのパンクのほうがすがすがしいってのも、字面だけからすればそうかもしれない。でもアナーコ・バンクとかいったって、みんな最初はたんなるカッコイイだけの記号としてサークルAを受容するとか、そういうことなんだと思うんだけどな。それにUKじゃないけど、シカゴじゃヒスパニック系のゲットーから LOS CRUDOS なんかがでてきたってこともある。アフロ・パンクみたいにアフリカン・アメリカンのコミュニティから育てられるってことだってある。パンクがどういう連中にどのように受容されてったのかということは、地域ごとに即して具体的にしかいえないような気もするし、おおざっぱにいえるような気もするし、よくわからん。
 じゃ日本はどうなのよっていえば、やっぱり同じことだと思う。初期はどうだかしらね。でも少なくともハードコアのはじめの方は、はっきりいって不良のにいちゃんねえちゃんの文化の一部。とくにメジャーがどうこうということにはまったく関係しようとしないアンダーグラウンドのハードコアパンクは、社会的ステイタス(笑)の上昇には貢献するわけないし、そういう指向もその背景となるような文化的資質ももたない。むしろそういう地下のパンクスは分断され固定された状況への執着を見せてんじゃないの、と思うことさえある。ハードコア初期土着型の「ジャパコア」なんかをみてもそうだけど、肉体労働者であることを誇示するような装いが一部に定着してきたじゃん。日本での初期ハードコアは、ゾクかパンクかってな案配の「不良」文化との融合という特質もある。昔のライヴハウスって「テメどこよ?」みたいな空気充満してたじゃん(笑)。ケンカばっかでハコからしめだしくって。だから「パンクがヤンキーに殴られていた」(町田康)っつーのは、1970年代末そういう状況があったのかもしれないけど、たんに町田がいた場所がそうだっただけなんじゃねのという気もするんだよなあ。とにかく、パンクがパンクどうしメンチきってドツキあってるっつーのはひところの文化としてあったわけだけど、ヤンキーとハードコアパンクということならむしろかぶってたように思う。で、こーいうのもひっくるめて支持してきたのはまぎれもなく労働者階級のガキじゃないのかって話。ヨーロッパと日本でその見え方が違うのは社会保障のありかたの相違を反映してんでしょ。むしろ「労働神聖」の神話がガッチリ社会をつかみ、最低生活保障としての生保取得にエグいほどスティグマをちょうだいしなきゃならんような日本のほうが状況はよりハードで、「労働拒否」できない環境のなかでヒーコラしながら、それでもなおみんなパンクなんだって(笑)。そりゃおのれの腕一本で労働に勤しんで食おうとするパンクスがプチブルだといかいわれたらむかつくだろう。そんなのはセルアウトした連中にまかせておけばいい話なんでさ。
 でもみんな歳くって人生どうすんだろ? ひとごとじゃないんだが、それこそ問答無用のノー・フューチャー……

最後に。フード付のパーカーはオールドなパンクだって着ています(笑)。
etikedo : DIYパンク
 
 

韓国の反徴兵運動について思い起こすことども

雨宮処凛さんがマガジン9条でキム・ソンハさんのルポをまとめている。韓国人のキムさんは日本に滞在中で、徴兵拒否の当事者だという。
 韓国には徴兵制がある。オトコだけの徴兵だ。拒否すれば投獄。おまけに代替制度もない。それじゃみんな軍隊いくんだろうなと思うと、拒否する人もいる。投獄覚悟で徴兵を拒否する人たちが存在するのだ。
 たとえば、徴兵制がらみでもっともおおくの被弾圧者を輩出しているといわれる「エホバの証人」の場合、徴兵検査は受けて入営するものの、実地の訓練で武器をもつところで最後的に拒否して抗拒罪(抗命罪)で投獄されるケースが多いときく。仏教徒でも拒否する人がでた。もちろん「反戦・平和」などの思想信条によって拒否する人もいる。いずれにせよ、韓国で(徴兵逃れではなく)徴兵拒否が社会的問題として大きく表面化したのは、2001年以降のことだったと思う(2000年からぽつぽつ動きは現れていたようだけれど)。
 なお、アムネスティは2002年に、「韓国では毎年500人以上が良心的徴兵拒否で投獄されている」と報告している。

ところで、雨宮さんのルポ「韓国・徴兵制なんて嫌だ! ある若者の闘い。(その3)」では、キムさんに「だめ連」の存在を教えた「A氏」の存在が言及されている。なぜ伏せられているのかよくわからんのだけど、通称ブンブンのことだろう。ブンブンは2001年1月に東京で“叛徴兵マニフェスト”を書きあげ、帰国後しばらくして騒動をまきおこしたアナキストだ。東京滞在中に19歳になってソウルにかえった兄ちゃんで、セックスピストルズでアナキズムを知ったというパンクスでもあった。
 ブンブンは2000年12月に東京にやってきて、早稲田にある「あかね」という知る人ぞ知る“交流居酒屋”を根城にして、日本の気のいい連中と交流しまくった。「おそらく韓国の徴兵問題についてアピールしようと思ってきたのだろう」という雨宮さんの書き方はちょっとおおげさかもしれない。ブンブンはまず友人をたよって東京に遊びにきたんだ、というのがぼくの印象だからだ。遊びにきたというのはほんとうのことで、うちに泊まり込んだときにゃ古谷実のギャグ漫画を見て笑い転げていたもんだ。はじめ飛び入りで店番をやって、あとですっかり定着してしまった「あかね」では、よくチヂミを焼いていた。みんなかどうか分からないけれど、お人好し連中の多くがブンブンの人なつっこい笑顔につられて笑った。
 もちろん徴兵がいやだというブンブンの気持ちは、東京にくるまえからのものだった。そうして東京滞在中に日本には徴兵制度がないと実際に耳にすることになり、「おれだって軍隊なんかいきたくねー!」「アナキストといっておきながら国にしたがうしかないのか」というせつない思いをあふれんばりにさせていったのだろうとぼくは見ている。ブンブンは宣言を書くまえから、東京の友人たちと徴兵についてよく議論した。もちろん話が韓米・日米の安保体制におよぶこともしばしばだった。「あかね」でブンブンと交流した多くの人たちが、徴兵制度、ひいては現実の軍事体制の問題について考えさせられたことだろう。道場親信さんが東アジアにおける軍事体制と徴兵制とのかかわりについて考究しはじめたのも、ブンブンの反徴兵の思いに接したことが契機となっている。
 こうしてブンブンは年明けにマニフェストを書いた。おまけに帰りたくないとグズついているうちに案の定オーバーステイ。空港でとっつかまって入管に送られ、しばらくそこに留め置かれたが、友人の支援もあってドタバタしながら帰途についた。

2001年2月にソウルに帰ったあと、ブンブンはアナキスト仲間の協力のもとにウェブサイト Anti-Military Service! をたちあげ、反徴兵宣言を公表した。宗教的信条による良心的拒否ではなく、思想(アナキズム)にもとづく反徴兵宣言は前例がなかった。あくまで「反徴兵 anti-military service」であるところに、ブンブンと仲間たちの意志が示されていた。翌年の3月に東京から支援者が訪問したとき、かりに代替制度があったとしても、国家にしたがって服務することに否定的な意見をブンブンは伝えている。
 でも、反徴兵を公然と宣言すればやっぱりそのままですむわけがない。しかもアナキストの立場からキッパリといいはなったのだから、国家権力が黙っているはずがなかった。2001年3月には、徴兵拒否・忌避関連のウェブサイトに対する警察の捜査がいっせいに開始された。照準をあわされた3サイトのなかには当然ブンブンたちの Anti-Military Service! も含まれていた。というより、政治思想的な立場から反徴兵を公然と掲げたブンブンたちがもっとも付けねらわれた。しかしブンブンと仲間一人は刑法違反(「徴兵拒否団体加入罪」)を理由に警察からの出頭要請の攻撃を受けたものの、これを拒否。直後に諸団体が逮捕されないように声明してくれたが、同時期に存在していた他の徴兵拒否サイトや、徴兵逃れ(徴兵忌避)の情報交換サイトなどは自粛するなどしてつぶれた。また残ったサイトもやがて消滅していった。とうのブンブンたちのサイトも、翌年の5月には国家によるインターネット検閲がもとでホスティング会社が恫喝され、強制的につぶされることになる(のちに復活するが現存しない)。こうした一連の動きをハンギョレ新聞などのマスコミがとりあげ、騒ぎがひろまったのだ。
 こうしてブンブンがソウルに戻ってすぐに波乱がまきおこったため、心配した東京の友人たちが4月末にソウルにとんでメーデーでの宣伝活動に合流した。ぼくがソウルのメーデーってものすげえんだなと直接知ったのは、このときのことだ。東京の有志はのちに「韓国の反徴兵運動に連帯する会」をつくって活動し、リーフレットや日本語情報サイト(現存しない)を制作するなどしてソウルでの動きを伝えたのだった。
 紆余曲折もいろいろあって、ブンブンは不安でつらい時間を長くすごしたはずだ。しかし2002年5月、ついに兵務庁から「おまえはいらない」と通告されてブンブンはお役御免となった。これはほんとうに例外的なことだった。政府高官だの金持ちだのの息子に徴兵逃れが可能でも、おおっぴらに徴兵制度を問題にして放免された人間はそれまでにいなかったのだ。昔だったらむりやり軍隊にたたきこまれてイジメぬかれていたかもしれない。この例外措置はひょっとしたら、ブンブンたちが反徴兵だけでなく反軍・反国家などの韓国政府にとってトンデモナイことを宣伝しまくっていたことに関係しているような気もした。兵務庁からの徴兵免除通告と並行して、ブンブンたちの反徴兵サイトが弾圧されたため、よけいに思想宣伝が問題とされたように思えたのである。
 ブンブンは「生真面目」に運動するのが苦手なやんちゃ坊主だったけれど(延世大の文化祭にバンドで参加するも尻出しを糾弾されたことがある)、それでも韓国のいろいろな大衆運動の場にしっかり登場して徴兵制の問題を訴えている。2001年のソウルのメーデーではアナキスト仲間とともに黒旗をふりまくって駆け足デモに参加した。もちろん徴兵拒否者としてのさまざまな場への登場は、仲間のサポートがあってこそのことだった。同時期に拒否した人々も含め、サポートしてくれる弁護士チームだってつくられた。だから推測できる理由がどうあれ、ブンブンが軍隊にとられなかったのは「みんなのおかげ」だったはず、ともいえるのだ。その後かれは世界放浪の旅に出て、いまは韓国に戻っている。
 いずれにせよ、大韓民国はいまでも朝鮮民主主義人民共和国とは「休戦」の状況にしかないのだし、それにアメリカが軍事面でおさえつけているわけだから、運動規模としては小さかったともいえるブンブンたちの挑戦は、社会的には大きな問題を提起していたのだと思う。しかし、いまも韓国には徴兵制度が厳然としてあり、代替制度はない。徴兵を拒否すれば投獄されるという状況に変わりはないのだ。だからキム・ソンハさんの闘いの困難さを思うと、陰鬱な気持ちになる。でも、本人ががんばる以上はやっぱりがんばってほしい。

ところで、そもそもなんでブンブンが東京に遊びにきたかというと、そりゃアナキストの“友だちネットワーク”のせいだとしかいいようがない(笑)。これはネタでもなんでもなくて、東京からソウルにたびたび出かけては現地のアナキストと交流していた日本人アナキストがいて、その人の交友関係からはじまったともいえる。
 ブンブンの東京行きには、仲間うちで先輩にあたるマニック(通称、この人も若かった)も同行していて、「ちゃんと帰ってきなさいよ」といいのこして先に帰ったのだったが、やはり親身にサポートしてくれたひとりだ。韓国の徴兵制は男性固有のキャリア形成に結びついており、当時すでに軍事問題は性差別の問題でもあるとあらためて捉えられはじめた時期だったことも手伝ってか、マニックの仲間のフェミニストも支援してくれた。
 そしてブンブンとマニックの運動仲間にコリアン・アナキスト・ネットワークを運営していたドープヘッド(通称)がいて、かれがそのサブサイトとして反徴兵サイトをつくって強制閉鎖の憂き目にあったのだった。ドープヘッドは反戦・反基地運動などでいまも活発に活動している。
  • 2000.12 ブンブン、東京にくる
  • 2001.1 ブンブン、東京に滞在したまま19歳となり(徴兵対象年齢)、“叛徴兵マニフェスト”執筆。オーバーステイ状態へ
  • 2001.2 ブンブン、ソウルに戻り反徴兵運動開始。インターネットを駆使して活発に宣伝をくりひろげる
  • 2001.3.20 徴兵拒否関連のウェブサイト弾圧で3サイトに関連捜査。ブンブンたちのサイト Anti-Military Service! も捜査対象とされ、圧力がかかる
  • 2001.4.11 反徴兵・忌避関連の5サイトを捜査し、2サイトを閉鎖、3サイトに内容を全面改変するように措置したと警察が公表
  • 2001.4(下旬) 東京より友人数人がソウルに激励訪問
  • 2001.5.1 ソウルのメーデーに合流。一連の労働争議弾圧の直後ということもあり、緊張感がみなぎっていたが、労働者の大結集で警察は要所警護のみで手を出さず。東京のメーデーでも有志がビラまき
  • 2001.7.29 ソウルからブンブンの友人であるイ・ユンスクさんとマニック(通称)を迎え、東京の有志が早稲田奉仕園で集会を開催。(『かけはし』に掲載された報告記
  • 2001.9 ブンブンの徴兵検査期限
  • 2001.10 ブンブン、韓国中を旅してまわる(済州島も訪問)
  • 2001.10.11 親もとに徴兵検査通知が届く(ブンブンは放浪中)。以後、親と親戚からの圧力が強まる。とくにお母さんからの懇請に負け、変則的に病院で検査をうける(結果は兵務庁に通報)
  • 2001.11 『週刊金曜日』第388・389号に取材記事掲載。竹内一晴「韓国青年ブンブンの徴兵拒否宣言(1)・(2)」
  • 2002.1 稲垣真美『良心的兵役拒否の潮流』(社会批評社)刊行(※ブンブンとは直接関係しないが参考として)
  • 2002.2.20 ブンブンらアナキスト仲間がブッシュ訪韓反対集会(野外)に参加、ブンブンがデザインした反ブッシュTシャツが100枚はける。ドープヘッドのギターにのせて「軍隊に行くな」を歌う
  • 2002.3.11-15 東京より支援者がソウル訪問し、ブンブン(20)、仏教徒の良心的徴兵拒否者のオ・テヤン(呉太陽)さん(26)と交流。オさんは2月に在宅起訴処分を受けていた
  • 2002.3.14-15 ブンブン、オさんと初めて会い、徴兵拒否談義をかわす
  • 2002.5 「韓国の反徴兵運動に連帯する会」、パンフ『韓国の反徴兵運動を考える』発行
  • 2002.5.24 延世大で開催された徴兵拒否をテーマとする平和人権文化祭で、ブンブンが参加するバンド「女子高生解放戦線」のライブ中に尻を出し、演奏強制中断。女子学生総会から糾弾を受け企画者側が謝罪
  • 2002.5.27 サイト Anti-Military Service! が、インターネット検閲機関のICEC(情報通信倫理委員会)の「審議」にもとづく二ヶ月の閉鎖命令と、反徴兵・反軍の主張が憲法違反だとして関連情報の削除要求を受ける。同日『大学生新聞』によるブンブンのインタビューが公表される(取材は4月20日)
  • 2002.5.29 ブンブン、兵務庁より徴兵せずとの通告を受ける
  • 2002.5.31 警察から圧力を受けたホスティング会社がサイト Anti-Military Service! を強制閉鎖。インターネット国家検閲に反対する共同対策委員会が抗議声明を即日公表
  • 2002.6 『日韓ネットニュース』22号に記事掲載。亀田博「韓国の反徴兵運動」
  • 2002.7.27 「韓国の反徴兵運動に連帯する会」、早稲田奉仕園でシンポジウム「兵隊にならないこと・戦争に行かないこと:反徴兵を日本で考える」を開催
  • 2002.8 『市民の意見30の会・東京ニュース』73号に記事掲載。道場親信「反徴兵を日本で考えること」
  • 2004.4 『南を考える』第6号に記事掲載。相川陽一「日本国憲法への「まなざし」を感じていくこと:韓国の徴兵拒否青年との出会いから」
参考
韓国の良心による兵役拒否の現況と人権 第60回国連人権委員会共同報告書(2004)
韓国徴兵制と人権問題を考えるPANDA(2007〜)
 
 

天皇主義の鈴木邦男がアナキストだとさ、かーっぺっぺっぺっぺっ

天皇主義の鈴木邦男が大杉栄をもちあげて「アナキスト宣言」する滑稽の図。死人に口なし。アナというからには天皇崇拝を清算したんだろうなァ、なーんてことは期待しちゃいけませんぜ。「弱い人、恵まれない人々を励ますために天皇制はある」とトンデモないことをつぶやきながら「アナ宣言」するたぁ、ほんっと厚かましいやろうだ。マガジン9条も恥を知るといい。
 アナは「大逆」でけっこう。「テロリスト」でけっこう。国家破壊をいうものが天皇制国家に消されるのは必然だ。それなのに「国家テロ」によるアナキスト/コミュニストの犠牲者の復権を鈴木がしれーっという目的は、ま、毒抜きだわな。アナキズムないしコミュニズムという、帝国の支配者からしたら許しがたい信条を持っていたもんをつかまえて、こんなに立派でしたなどと顕彰するのは、ようは叛逆者の系譜と戦後天皇制との両立をはかろうとするせこい下心があるからだ。まさに天皇主義的ド日本帝国人による予防拘束的治安対策。魂胆まる見え。
 だいたい「国家テロひどい!」の善良市民面からする殉難主義者の「復権」って、行政まきこみも辞さないタイプの「おらが郷里の(近代主義の)えらいひと顕彰」と一蓮托生じゃん(国家テロはたしかにひどいんだが)。身内一党の怨み骨髄の弔い合戦とはわけが違う。そーいうあくまで赤の他人の野次馬的振る舞いのなかで、その主義者がもっていたはずの思想信条が無化ないし中和されるわけだ。鈴木にかかれば、大杉はこうやって利用される。
共産主義からの自由、国家権力からの自由。あらゆる強制・束縛からの自由だ。それをアナキズムと言うのなら、僕だってアナキストだ。
ボルからの自由というならともかく、共産主義からの自由ってのは詐術だな。おい鈴木、早く天皇から自由になれやってのはさておき、大杉栄は「アナボル共同戦線」の挫折を経過し、またロシア革命の内実を訴えるアナキストによる報告を受けて、たしかにボルシェヴィキに対する徹底的な批判者となった。ロシア革命は革命をどうやったらいけないかの見本だといった。しかし革命は擁護してたじゃねえか。「征服者」による「征服(と支配)の事実」を声高に糾弾し、あくまで革命によるその破壊を主張してたんだよ。天皇および天皇制・資本制の敵対者だから殺されたんだ。著作にふれたことがあるなら、そんなの分かりきったこと。看板はあくまで無政府主義であって、はっきりとは自由共産主義といういいかたはしなかったが、その思想が「大逆」であることは間違いない。大逆事件で同志たちが殺されたあと、大杉は次の句をよんだ。
春三月縊り残され花に舞う
大杉がマフノらのウクライナにおける自由共産主義運動に執着したのも、その実力行使の運動にある理想を見ていたからだろう。だから大杉にならってアナキストというのであれば、同時に天皇にぬかづく鈴木邦男はホラ吹きだということがうきぼりになるだけ。愚かなり。
 それでも鈴木は死者にむち打って三文芝居にいそしむ。なりぬりかまわぬ「安全・安心」の治安対策は死者にまで及ぼうってフリをする。鈴木はこともあろうに「大杉栄メモリアル」(大杉栄の会)にお呼ばれしてかくなる次第にいたったわけだが、幸徳、大杉、多喜二を「国葬」にせよとうそぶくあたり、吐き気がするほどその魂胆は確信的。
 それにしても無政府主義者をつかまえて「国葬」って、よくもまあヌケヌケといいやがったもんだ。オトシマエならクビリ殺した天皇制国家の破壊だろが。ふざけんな。しかも大杉、伊藤野枝、橘宗一に言及しながら、亀戸事件はおろか関東大震災のもっとも凄惨な犠牲者である朝鮮人・中国人については一切ふれない。ぺっ。さらに聞き捨てならねえのは、戦争責任のオトシマエとして国家が戦没者を慰霊しろというトンチキの直後に、これら主義者の「国葬」をぶっていることだ。慈愛深き天皇を演出し、そのインチキをおしいただく国家の道義的役割の必然性をデッチアゲてスリコミたいってこったな。天皇と国家の叩き売り。そんな安っぽいプロパガンダにだれがひっかかるんだよ。
 自称新右翼の鈴木の立ちまわりって昔からこうで、その真骨頂は反権力面して「テロリスト」「アナキスト」に秋波をおくって、その体制との調和を目的とした毒抜きをはかる道化師ぶりにある。けど、鈴木みたいな「天皇の赤子ムードだけ」やろうの軽口にひっかかる方が悪いっちゃ悪い。
 しかしなあ、「愛国問答」をかかげてアナだあ? アナに「国」なんかあるか、じつにくだらねえ。
 
 

社会運動を語るデマと「現場」・その2

出先から執念深く追記、記事をあらためることにした。

さきの記事では「自分のかかわりのある範囲で言及された部分にのみ反応しておく」としたが、ここで指摘することは「間接的なかかわりの範囲」でのものになる。
理念派の中にも山谷などのホームレス運動に参画する者はいましたが、社会全体の貧富階層構造を具体的に論じようとする理念派は、昨今の非正規労働問題までおりませんでした。

http://h.hatena.ne.jp/hizzz/9234071495480631220
この記述すべてが謬見である。寄せ場の運動にかかわろうとする「理念派」は、寄せ場や近年では無宿をふくむフィールドを、つねに社会全体にかかわる構造的な階級の問題として追及/追究してきたはずだからである。そのアウトプットの典型が1988年から刊行されつづけている『寄せ場』(寄せ場学会年報)だ。個々の研究内容やその立ち位置をどう評価するのかということはさておき、近年では移住労働者がおかれる状況もまた問題の射程としてとらえられている。誤解をおそれずにいうと、それは「越境する持たざる者」の自己認識にかかわる問題設定である。また「ニコヨン」の〈当事者=運動者〉であった平井正治の『無縁声声 日本資本主義残酷史』(藤原書店、1997年4月)が、アカデミーに籍をおくものたちの支援によって成立したことなども人は知るだろう。
 「持たざる者」という認識のフレーム(枠組み)が追及する範囲ははばひろい。ひとりの貧困はみんなの貧困という問題意識がそこにはあるようにも思われる。こうした問題意識を反映する近年の運動に、「持たざる者の国際連帯行動」がある。それは東京・山谷の活動者がフランスの社会運動に接触することで2003年にはじまったものではあるが、年一度の集会・デモはいまなお日雇全協などが主体的にになっていることに示されているように、日雇・野宿労働者の運動の尽力によって成立し、現在にいたっている。もちろんそこには日雇・野宿労働者運動にかかわる人々だけでなく、かかる運動との連携を模索している諸個人・運動体が協力している。そしてこの「持たざる者」の運動においても「理念」をあつかう立場であろう人々が合流していることは、運動体が公表する情報だけを見ても容易に了解されるところなのである。
 しかし上記の引用にみられるように、「最底辺」とされる人々の社会的営為はつねに「見えないもの」として隠蔽されてきた状況がこの社会にはある。〈いま・ここ〉の存在が自らの存在を主張するにもかからず、その協力者の存在もふくめてまるごと見て見ぬふりをする態度が横行しているのだ。なんという差別的な状況であることか。もちろん、ある社会運動が社会的に周知されないという問題は主体的力量の限界をも照射し、その運動主体にとっての省察さるべきことがらとしてあるともいえよう。
 あるいは、同様の限界によってやはりなかなか周知されないが、女性─「主婦/パートタイム労働者」の立場から生活と労働の問題を撃ちつづけた運動体に、「パート・未組織労働者連絡会」がある。その歴史は古く、1970年代後半から各種媒体での積極的な発言があり、ウェッブサイトも90年代後半から存在している。ほとんど個人的ともいえるこの運動の主体は、当事者であるとともに「理念」的な内容を把持する発言者でもある(その足跡は村上潔によるまとめが参考になる)。そしてこのような発言者の背後には、だまって同様のたたかいをつづけることで発言とする無名の人々がそれこそ無数に存在しているのである。そのことは労働問題にかかわる裁判闘争の記録にあたれば十分すぎるほどに分かる。判例の蓄積による労働の法理はまた、かかる〈当事者=運動者〉の社会的発言のあととして残されてもいるのだ。
 集会やデモや裁判闘争といった公的に訴求する試みそのものに気がつかず、また気づかないフリをしているか本当に気づかないマスメディアや傍観者の大勢にならったまま、貧富の偏在や階級の問題を論じるものが近年まで存在しなかったとまとめあげる憶断は、差別と収奪の構造を補強する怠惰でしかない。社会運動を論述するさいに慎重さが要請されるのは、運動史を問題とするはずの語りのなかでさえ除外される人々がつねに存在させられてしまうためでもある。こうした陥穽の問題にとり、論述しようとするものすべてがその潜在的当事者だ。だからこそ自戒もこめて、わたしは上記引用のいう状況論をここで否定する。
etikedo : 社会運動論
 
 

社会運動を語るデマと「現場」

やはり出来事を言葉で伝えようとするのは難しい。

かわされている議論には興味がないので、前後の文脈は詮索せずに、自分のかかわりのある範囲で言及された部分にのみ反応しておく。
運動者の間で明白となったのは、やってきた各国運動家から批判を受けた指導力・組織運営力を欠いて「言葉」しかなかった理念派指導の洞爺湖サミット運動でした。

http://h.hatena.ne.jp/hizzz/9234071495480631220
ウソをいうなウソを。こりゃ、現場にいなかった人間による「理念」のためだけにするデマ言説だ。ある部分で組織化の過程に反省が必要であったことは否定しない(「指導力」ときやがったド官僚ぶりについては黙殺)。しかし「洞爺湖サミット運動」には多様な潮流があったということさえ分かっていないようだ。先回りしてことわっとくが、「ピースウォーク」や「豊浦・壮瞥キャンプ」だけが「サミット運動」じゃねえ。
 洞爺湖サミットをめぐる運動の主体としてはいろいろあったのであって、ごくおおざっぱにいうと以下のようになる。

・中核派ふう(笑)にいうところの体制内派
・提言型NGO/NPO
・反対派

しかもこの傾向は、諸個人・運動体ごとにきれいに切り分けられるようなものでもない。たとえば旧社共勢力の場合は、提言型運動と反対派的運動の双方にまたがっていたりする。またひとくちに無党派(ノンセクト)といってみても、無党派はこのおおざっぱにわけた類型のなかすべてにいる。NGO/NPOのなかにも反対派的なスタンスをとるグループが存在する。また反対派のなかでも、治安弾圧のしめつけのなかでどうやって運動をくみたてようかという点でさらに分岐がある。ちなみに「1万人のピースウォーク」は旧社共を市民がブリッジしたかたちで主催が構成されており、それは札幌地域における社会運動の蓄積によるものだった。
 それでも新左翼やアナキストだけは反対派にくくっておけると思う向きもあるかもしれない。ところが「新しいアナーキスト」のなかには「反対」の看板に逆行するようなかたちで行政に対処しようとした流れもある。当別キャンプがどのように呼びかけられ成立したのかを見ればそのことはうかがいしれる。このキャンプは一方では街を一時的にスクウォットされるのを恐怖してその対策のためにあったとさえいえるのだから(「恐怖した」とはいわないものの、組織者の報告パンフ自身が対策の意図するところを説く)。だがその当別キャンプが「新しいアナーキスト」だけでつくられたかといえばそうでもない。当別キャンプの企画は東京から持ち込まれたとはいえ、在地の諸個人・運動体の協力があって実現したものであって、その主体は多様な結集となった。
 また新左翼やアナキストだって届け出のデモを独自に主催したりもする。これは法制度と警察の対応の問題があって「官許」の行動にならざるをえないわけで、気持ちとしては「反対」でも現実には「ぎりぎりのところでやっている」ということ以上にはならないのが実勢だろう。理念と現象は必ずしも一致しないのである。

さて、「批判を受けた」というのは「洞爺湖サミット運動」を構成したさまざまな運動体のうち、どの潮流・部分のことか? また批判主体の「各国運動家」とはなんのことで、またどのような批判をしたのか? 印象ではなく具体的にものをいうべきだろう。印象批評は自分の言説のためだけにする「理念」至上主義のうんこでしかないからだ。
 それにしても、おれが「総括」のために個人的に提起したなかで言及した「海外からきた人々」は、ごく一部をつかまえてのものでしかないということさえ理解できてないんじゃないの? 潮流ごとに連携する海外の個人・グループがきていたってことを分かってないんじゃないの? おれが批判の対象として数えた海外連中は、当別キャンプに滞在した主として「直接行動派」とみなされうる部分だったのであって、その他の潮流によってよばれた人たちについてはなにもいってない。たとえば、ビア・カンペシーナやATTACや民主労総やその他の海外の環境・人権団体などを言及の対象にしていたか? してない。ためにする言説に利用されるのはごめんだね。
 デマ編集子が「見えた」つもりになっているのは氷山の一角にすぎない。たとえば「1万人のピースウォーク」で弾圧をくった「サウンドデモ」部分はあくまで全体のうちの一部分だったのであって、そこに結集するかっこうとなった海外組も海外からきた人々のうちのごく一部だったともいえる。ピースウォークの各潮流ごとの隊列それぞれに、海外からきたいろんな人たちがいたんだぜ? 四つあった各キャンプも同様。伊達のキャンプはそれじたいで成立してたけど、そこにも海外からの仲間が参加した。発言するなら報告パンフくらい読みな。
 伊達キャンプ主導のデモでは統制をきかせていたときいているけれど(スクラムに表徴されるようにそれはただ黙って警察に屈服するということではない)、連日にわたって壮瞥からの合流があり、また最終日には豊浦・壮瞥からの合流が実現した。運動過程での「直接民主主義的な合意形成」にこだわるなら、統制型の行動への合流は、現実に展開する治安弾圧の制約のなかでの努力を見てそれを受容したということでもある。でなきゃそもそもがんじがらめの届け出の行動に参加するなよって話だわな。「海外の直接行動派」はその意味において態度を修正しているわけ。で、壮瞥は行動拠点としては放棄されたが、豊浦でも連日独自の行動が組織された。軋轢をふくむそのさまざまな過程において、海外からきた人々も逆に「学んで」帰っていった。んなこた想像できる範囲の話でしょうよ。ちなみにキャンプに合流した「海外組」の有志は独自にとらえかえしの努力をしていた。なぜピースウォークではああなってしまったのか、キャンプでの討議はどうだったか、自分たちと日本の友人とはなんだったのか等々。「批判者として正しい存在」としてかれ・かのじょらはいたんじゃない。
 いずれにしても、日本─海外の運動の連携は運動体それぞれに固有の歴史・蓄積があるのであって、その関係性を一概にいうことはできないんですわ。なんでこんなあたりまえの注釈をいまさらしなきゃならんのかねえ。「現場」不在でWWW上の情報だけでものごとを判断しようとするから、そういうトンチンカンな話になるんじゃねえの。いやWWW上の情報だけであっても、個々の運動体によるものをそれぞれ丹念に見ればそんなこたすぐに分かるはずなんだが。

さらにいえば、おれが海外からきた一部の「直接行動派」についても同志的批判の対象にしていることも読みとれていないんじゃないの? かれ・かのじょらもまた情報共有と討議を十分になしえなかった「ダメな主体」であるという含意が分からないようでは、「洞爺湖サミット運動」つにいて云々することはどだい無理だね。
 日本の運動は海外からきた人々に批判されるべきものとしてあったんだ、とでもいうような能天気なおしゃべりの問題についていっておくと、まず第一に無自覚の「海外」事大主義がある。冗談じゃねえな。どこにいる人間であろうと無謬なわけがなく、運動の組織化という位相において一方が他方を批判するだけですむと錯覚しているような認識的枠組みは、屁のつっぱりにもなんね。
 第二に、代理表象でことたれりとでもいうような認識の問題。もうすでに書いたことだから詳しくはくりかえさないけど、一部ですべてをいえると思わないこと。しかもその一部についての解釈がトンチンカン。
 第三に、論述における慎重さの欠如。そんなにいうなら「現場」いけって。参加じゃなくていい。ちゃんと観察すること。完璧な作業は誰にもできないとしても、丁寧な観察を欠く「運動論」はなんの役にもたたないから。せめてWWW上の一部の文句だけではなく、紙媒体にまとめられた記録などにもあたってから語ってください。

「理念派」うんぬんについても補足しておこう。
 たしかに「新しいアナーキスト」は理念にはしりがちではあったけれど、日本のかかる「理念上の直接行動派」の一部は、それまでの「不在」をすこしでもうめるべく準備段階から「現場」に合流してひっしになにかをつかもうとしていた。そういう一切を捨象して「理念派が運動を指導した」といいきることの傲慢さを自覚したらどうなの? 「個々現場援助活動の実態/検証のフォローアップがないまま言論を主活動とした理念派」って誰のこといってんの? おれは「新しいアナーキスト」的な「にわか運動家」とその行動については、それに批判的な者としていいたいことがあるけれど、それでもともに「現場にいた」ものとしてはこの点だけは擁護する。
 これまた繰り言かもしらんけど、「洞爺湖サミット運動」は「理念派」の「言葉」によって成立したんじゃないんで、そこんとこよろしく。「言葉」の背後には無数の営為があるということだけはふまえていただきたい。いったい誰が集会の場所を確保し、デモを申請し、ビラやウェッブサイトのような宣伝媒体をつくったり、文言をねりあげたり、技術的なサポートをしたり、そのために時間をかけて合議していると思っているの? 無名無告の「活動者」だよ。「活動者」というかただの人なんだが。そもそも「運動」は、それじたいとにとどまるものではなく、そこにいたるさまざまな運動が存在していたからこそのもんだ。かりに「理念的な言葉」が揚言されていたとして、それはしかしなんらかの蓄積あってのことだ。「オルタナティヴ・ヴィレッジ」などはなるほど輸入の言葉っぽかったわけだけれど、しかしそうした言葉に含意される内容に意義を見いだし、実践にうつそうとする試みもあってよかろう。

註釈すべきことはまだある。
イラク戦争を機に「ストリート」を現場にみたてた理念派+サブカル派の、「サウンドデモ」手法自体の陳腐化と、警察対決デモという自閉による社会各層/現場との乖離問題は、昨今の派遣/非正規運動が社会的関心を集め一定の具体的成功を勝ち取る横で、色濃くなってきました。

同上
「サウンドデモ」が「理念派+サブカル派」によるもの? そういう傾向の人たちがいなかったとはいわないけど、出自はいろいろがほんとのところ。2003年の東京にあっては、「実際に連絡をつないだ人々は、活動者と音楽関係者だけでなく、編集者、小説家、美術家、ライター、デザイナー、フリーター、プータロー、学生が含まれ」(「「サウンドデモ」史考」)ていた。イラク反戦運動のなかから登場した「サウンドデモ」が「理念派+サブカル派」によるものだったなんて話、いったいどこからネタをしいれてでっちあげたんだか。つうか「サブカル派」ってなに?

手法の陳腐化ということには異論はない。どんな方法であっても反復のうちに陳腐化するのは必然だ。その意味で、そもそもデモじたいが陳腐化しているというべきだろう。だからおおくの人たちが「新しい」ものにひかれる気持ちは理解できないでもない。おまけに(東京の一部では)おとなしく歩いているだけでも警察ががんじがらめにしてくるという息がつまりそうな閉塞状況があるんで、なおさらだ。沈滞した空気のなかで、そもそも存在じたいが不当な公安条例や恣意的な道交法の運用に縛られ、粛々と歩かされる「捕虜の隊列」の悲惨さを考えてみればいい。不当な規制にあらがいたくなる粗忽者の気持ちも十分に分かろうというもんだ。原因があって結果する。「不服従」の態度は規制・弾圧の結果でしかない。
 そう、つまり、歴史的経過を捨象して「サウンドデモ」を「警察対決デモ」と倒錯的に表出させることは、権威屈従への密通の回路となりうるのである。たかが届け出の、つまり「官許」のデモをやることじたいがある意味で現実的対処でしかなく、「対決」などとえらそーにいえるようなもんじゃないのに、この言説はいったいなにをいうのか。道交法や公安条例で不当なあみをかぶせてくる警察のデモ包囲があるからこそ、それにしたがおうとしない態度もまたでてくるんであって、その逆じゃあない。しかも届け出のデモに「対決」だなんだって、やっぱり恥ずかしいわ。そりゃ届け出のデモのなかでだって、行動者の側が実力行使におよぶこともあるでしょうよ。でもそれ、いつの時代のこといってんの?
 「サウンドデモ」の段でいえば、トラック周辺の「防衛」としてやってたことはせいぜい、機動隊の規制線上ぎりぎりのところで盾にこづきまわされながらじゅずつなぎになって圧力にこらえてただけで──サウンドカー直後の隊列のなかは熱狂的な踊りのため、スクラムがくめない(笑)──、「対決」というより「したがおうとはせずに、じっとこらえてる」っていったほうが実態に近い。手も足もだしてない。そうなりそうなところには同志的対応をもってあいだにはいっていたくらいで、これは2003年の話。03年の渋谷での弾圧は、ありゃ警察がデモの態様になんくせをつけたんじゃなくて、公安条例に依拠して時間制限でひっかけたもの。デモの側からつっこんだんじゃなくて、警察が無茶苦茶にしかけたからこそ弾圧にいたったのだ。心理的な「対決」状況の現出はその結果。具体像としては、デモ側は弾圧されてもぐっとこらえ、デモをやりつづけることで反撃とした。そして04年に消えた。
 行動を提起した側は「平和裡」にやってたからこそ、テレビだののマスメディアだって調子こいて「新しいデモ」(笑)を取材したんで、デモ総体が「対決」状況にあるんじゃあ、なかなか報道しない。で、そうした「平和裡」にあっては、いってしまえばデモ参加者のほうが「防衛」をのりこえていた。街を席巻したのはまさしくそういう参加者であって、組織したはずの人間はそのエネルギーをなるべく減殺しないようにつきしたがっただけともいえる(ただし弾圧後のデモでは「ANTI POLICE ACADEMY」と称した反警察・反弾圧プロパガンダなどで状況への警告をくりかえした)。それでもそののりこえにあげつらうべき暴力はない。機動隊が不当に押し込んでくることに対して押しかえす、それのなにが暴力か。いや状況によっては暴力になりうるが、その力の発動をおれは全然恥じない。そもそも「対決」してなにがわるいの? 踏みにじられっぱなしでさらにだまってしたがえってのは我慢ならん。
 その3年後に弾圧をくらった2006年の「自由と生存のメーデー」はどうだったかといえば、こういうと組織者には怒られそうだけど、映像を見る限り03年よりあきらかにテンションが低い。一車線内でボチボチやってる。それでも警察は弾圧した。おとなしくやってるデモを公安条例じゃひっかけるのが難しいから「道交法違反」で、だ。切符きるんじゃなくて(運転手は切符きられただけで逮捕をまぬがれた)、誰何(すいか)もしてないくせに「逃亡のおそれがあった」などと事後的にでっちあけつつ道交法違反でDJを逮捕した。トラックの荷台はぐるりと機動隊に囲まれていて逃げ場もないのに、公安警察が逮捕したんだよ。逮捕時の異様さは、記録された写真動画によって事後的にでも確認できらあな。しかも弾圧を主導した公安警察のやり口が無茶すぎて、維持するのが困難だったのか勾留の請求さえされずにこのDJは検事釈放となった。あるいはとられそうになった仲間を助けようとして一人が公務執行妨害で逮捕され、また公安が風船を盗み取ったのを取り返そうとしてさらにもう一人が公務執行妨害で逮捕された。この二人には勾留が請求され認容された。「現行犯」なのにガサが強行された。勾留を認容したりガサの令状にハンコをつくのは裁判官だ。つまり地裁も弾圧の協力者だ。それで逮捕者はみんな不起訴処分だ。つまり弾圧の実態はぜんぶ公務員による職権濫用だ。これのどこが「警察対決デモ」なのか。「対決」のなかみを具体的にいってほしいところだが、いえやしないだろう。憶測にもとづくデマでしかないのだから。

おれは所用で2006年のメーデーには参加していない。だけど仲間がやられたってんで、そのやり返しの秋葉原でのサウンドデモには申請ふくめて準備段階からくわわった。その申請をめぐる攻防のなにいて、警察‐公安委員会が結託する体制のもとで行動を組織するのがつくづくイヤんなった。お話にならないくらい、警察はウソと恫喝でことをすすめようとするからだ。それでも場は必要だ。場はそれじたいで交流の機会をうみだす。そしてその交流こそが、たえざる反省と新たな試みをうみだす原基として機能する。だからこそ08年まではメーデーやら反戦デモやらの「現場」にはりついていた。東京新宿のデモコースでの自粛慣行をくつがえして大ガード通過や駅前解散をかちとったのだって、チマチマチマチマチマチマチマ…としたデモ申請をめぐる警視庁とのやりあいと「現場」での攻防があってこそ実現したものだ。じつに涙ぐましい。こんなんで「対決」とかいわれても、はぁ?ってな実感しかない。少しでも「自由」にしようという苦し紛れが現れているだけだ。気持ちや姿勢としては「警察にはしたがわんぞ!」ではあり、参加者個々の行為もいろいろあるけれど、総体としては「なんとかやりぬく」というギリギリの線でしか届け出のデモは存立しえない状況がある。
 それにもはや、規制線を突破した先になにかがあるかのように夢見られる社会状況じゃない。「突破した先はアスファルト」という笑い話が「現場」にはあるけれど、ほんとうにそう。デモが邪魔ものあつかいされ、迷惑視され、野次馬が行動をつきうごかしたなんてそれいつの話?ってな状況のなかにあっては、いつも警察に包囲されて萎縮し、あるいは傍観者がたばになって補強する規制線を横目で睨みつけながら、それでもなんとか粘ってるしかない。そうだよ。はしゃいでんじゃねえよ。出発地があって解散地も決められているデモは、機能的にも最初から「対決」なんかじゃねえんだよ。
 むしろ警察と直にやりあうような局面って、定点での抗議行動こそそうだろ。排除と抵抗でせめぎ合いになる必然がそこにはある。そこでどう頑張るかで現象はことなったかたちを見せるのだけれど。

まだいうぞ。「陳腐化即乖離」とでもいいだけな情勢認識も間違っている。2003年でいきなりピークを迎えた東京の「サウンドデモ」は、それ以後テンションはたしかに下がった。だけれど手段が陳腐化すればテンションが長期低落するばかりかといえば、そうでもない。03年以後のサウンドデモのテンションは下がったが、下がりっぱなしではなかった。弾圧をしかけられた「自由と生存のメーデー」はそれで消えたりはせず、逆に年々拡大した。もちろんそれはメーデーに結集する人々の不屈の態度による。テンションは上がって下がってまた上がった。なぜか? 簡単なことだ。人がやるものだからだ。人の行為はそれだけで自立・自足するのは困難で、いつでも外部との関係において結果が左右されてしまう。いいかえれば、社会運動における各種の行動がもたらす勢いというものは、単に主体の条件だけによらず、それをとりまく社会状況によるということだ。「自由と生存のメーデー」が弾圧後もつぶれずにむしろ拡大して、沈滞しかかっていた「サウンドデモ」のひりつくような士気をふたたび獲得したのは、この外的条件によるところが大きいとおれは思っている。
 行動のスローガンとして「非正規」を問題化しようとはだれもなにもいわない2004年の段階で、「新宿フリーターメーデー」(フリーター労組準備会呼びかけ)として新宿で産声をあげたそのデモは、50人にも満たないような小さな行動だった。その行動は翌年に「自由と生存のメーデー」へと継承された。そして06年に弾圧とやり返し(プレカリアートの自称はこの年から)。弾圧のあとさきにも参加者はふえつづけていた。フリーターメーデー時代には台車にミニマムなサウンドシステムを積んで転がすという形態だったものが、トラックを使用する「サウンドデモ」となった。前述したようにそれは03年の熱狂にはおよぶものではなかったが、メーデーがしつこく労働と生存と戦争の問題を提起していくなかで、街頭をねりあるく様相は徐々にではあれたしかに変わったのだ。年々、参加者のテンションは上がっていくように見えたが、それは反戦運動の参加者とはことなる人々が数多く合流したことによっていたはずだった。生存/労働問題を提起しつづけた人々が、「非正規雇用」が社会問題としてひろく認知されていく外的状況におしあげられたかっこうとなっていた。こうした外部の条件の変化と、組織の外にある人間の参加こそ歓迎するという同メーデーの内的条件が、新宿駅周辺をとおさないとしてきた警視庁・新宿署の不当な規制慣行を事実としてうちやぶる勢いを形成したのである。その勢いは、従来の組織・党派ごとの結集という枠組みをのりこえる下地がつくられつつあったことにも現れていただろう。名も知れぬノンセクトが主導する行動に、新左翼のみならず既成左翼たる社共系の若干の人々が合流するということさえ近年まれにみる椿事だった。これは労働運動の一部で胎動しつつあった枠ののりこえという情勢に対応していた。しかし重要なのは、同伴者はそういう「左翼」とされるものばかりじゃなくて、日雇・野宿労働者、女性を軸とする労組、障害者、福祉受給者、「引きこもり」などの差別される蹶起者が合流していたことだ。既存の党派とはなんの関係ももたない圧倒的な人々が合流していたということ抜きに「自由と生存のメーデー」は語れない。
 「現場との乖離」? ばかをいうんじゃない。「自由と生存のメーデー」のよびかけ主体で、かつ主催を構成する一団体であるフリーター全般労組が「誰でも一人でも加入できる」地域合同労組として日夜格闘していなければ、こうした諸個人と組織それぞれの「現場」の交錯という状況をかちとることは困難だったはずだ。フリーター労組があくまで孤立するサークルにとどまっていたなら、同メーデーもまた誰にもしられない「現場」しか獲得できなかったに違いない。だが現実は逆だ。
 ところで、07年に東京新宿の大ガードの通過、つづく08年の東京新宿での駅前解散という事態は、なさけないことに何十年かぶりのことだった。もちろんその行動の内実はつねに問われなければならないが、警察の不当なしめつけに屈してきた自粛慣行を突破した画期は記録されてよい。これは孤立した小さな行動のままでは実現も困難な攻防だっただろう。参加者がふえつづける趨勢のなかで、主催者側も意を決して申請段階での攻防に力をいれなおしたということがあるからだ。デモの「不許可」という事態さえ主催者には覚悟されていた。しかし参加者のあとおしがなければそうした冒険もない。そういう意味では、「自由と生存のメーデー」の「サウンドデモ」は参加者の熱気とともにあった。同メーデーに限定していうなら、その数年の歩みは「社会各層/現場との乖離問題」とは無縁だ。「社会各層との乖離」をあくまで主張するなら、それは、「自由と生存のメーデー」に集う、どこにも属さない孤立した諸個人の一切を無視するどしがたい差別となる。孤立した無名無告の人々を社会運動の主体として無自覚にみとめない態度こそ、克服されるべき「現場との乖離」ではないのか。
 では現在はどうか。わたしは08年以後「現場」の組織化から撤退しているので、これは伝聞になることを断っておく。それでも、09年には参加者はやや減ったもののその高い士気はいまだに持続しているときいている。たとえ03年のような熱狂はもはやないとしても、粘りつづける人々の意気はなお軒昂だということだ。しかも06年以来、デモは無事に貫徹されつづけている。「対決」? そりゃ申請時やデモという「現場」のあちこちで対峙する局面はあるはずだ。そうだとしても、行動総体としては警察がしかける挑発をはねのけて無事におこなわれてきたという意味をきちんとふまえるべきだろう。「対決」を外在的に渇望するのはいったいだれなのか。

蛇足ながら「サウンドデモ」のテンションといえば、東京では同時代に並行している「素人の乱」提起のものやマリファナマーチなどがあることを人は知る。「素人の乱」によるデモが独自の緊張と興奮を維持していることはいうまでもないだろう。しかも「メーデー」を契機とする他者の交錯がここにもあるのだ(その意味で今年の阿佐ヶ谷メーデーもまた記憶されるべきだろう)。いまだはっきりとした姿を見せるにはいたっていないが、伏流水は底でつながっている。
 手段としての種子がばらまかれてはや数年。行動に内在する意味の変化をどうとらえるにせよ、かつての「路上解放」が手段に転化したいまでも、「サウンドデモ」のポテンシャルはまだなくならずにあるように思える。

というようなくだくだしい話は「現場」で泥水かぶってなきゃ感覚的には分からんのだろうとは思うが、それにしても思い込みのデマはたいがいにしてください。
etikedo : 社会運動論
 
 

無法者、公安警察

etikedo : 反弾圧 公安警察
 
 

研究者と主体性

かつてあった研究者の主体性をめぐる苦闘について知る。

三〇年以上も前の青年中国研究者会議のあいさつは、「大学闘争に象徴される文化闘争を,一歩後退した地点で学問,研究,教育の問題として持続的に継承せんとし」た意気込みにあふれ、同会議がなくなろうといまなおその意義を失わない。この意気込みは、批評のにみ閉じこもって人をせせら笑うばかりという腐敗した精神とは無縁だ。

しかしこのような研究者集団はいまはもう存在しないようにも思える。いうまでもなく、かかる問題は史学ばかりにとどまるものではなく、客観をよそおって自らを隠す怯懦はあらゆる領域をおおう。

ちなみに『中国民衆反乱の世界』は続刊があるようだ。(頒価がむちゃくちゃ高い……)
etikedo : 文化闘争
 
 

労工として殺され、生きる人々

戦時中の中国人強制連行問題といえば、たとえば花岡事件などは知っていたつもりですが、七尾の強制連行についてはまったく知らずにいました。それでなにがオトシマエだおまえは状態ですが、とりあえずリンクだけ。ウェッブページのタイトルの漢字が一字違っているようですが、七尾中国人強制連行問題
 運動体のサイトがないため地方議員さんのページへのポインタです。でも、サイトなんかなくても運動はできます。基本は紙つぶてです。

 さて、七尾の運動については、9日一緒に持ち場についた方にいろいろと教えてもらいました。びっくりしたのは、「いつのまにか前におしだされて──」と語ったその方が、ほとんど持ち出しで運動にとりくんできたということ。裁判闘争をすすめるために、たびたび大陸にとんで交流と調査を続けてきたというのです。どこかの篤志家がカンパしてくれるわけでもありません。他の仲間たちや弁護士もまったくの手弁当だそうです。それでもそれを助ける人々がいるから社会運動が成立するのです。人間の歴史は政治がかなりの部分をしめますが、政治に直接かかわらない人間もまた歴史をつくるのだということをよく示している話だな、と思いました。
 そしてわたしはただひたすら頭があがりません。前面にたつことと裏方の仕事に違いはないと思っていますが、ことこうした運動で前面にでることで引き受けざるをえないリスクというのもまた確かにあるからです。それは単に経済的負担というだけでなく、日本帝国主義の罪業を認めようとしない自民族中心主義者からの攻撃をも引き受けるということを意味しています。

 話をきくなかで、印象にのこったことをもうひとつ。
 強制労働の当該や「労工」として殺された人々の遺族が、最近までずっとだまってきたということ。「おまえ(のおやじ)は日帝のために働いた」といわれるのがおそろくして沈黙してきた経過があるというのです。これは当然にも戦争がなければありえない悲劇です。日本帝国主義の罪業は、戦争そのものだけでなく戦後もたらされる事態によって倍加せざるをえないのです。戦争と革命からある程度の時間が経過し、ようやく証言にたつことが可能になったということもあるでしょう。しかし沈痛の黙秘という事態を動かしたのは、やはり人間どうしが交流する社会運動あってのことです。

 大陸各地からきた人々はそろいのゼッケンをつけていて、前面には怨とありました。
 偶然にも怨ということについて思うところがあって、そしてなぜか愕然としました。慰霊行事で当該や遺族が慟哭にくずれおちても怨念はきっと昇華されないだろうと、そう思うことの不遜さを懼(おそ)れながら、なぜかそう思わざるをえませんでした。困苦は集団的でありながらも、結局は一人ひとりのものであるしかないからかもしれません。
 ではかわりに「人民連帯」によって怨みが晴らされるのでしょうか。あるいは帝国主義の打倒によってでしょうか。わたしには分かりません。ただ少なくとも、人々の実際の連なりのなかでなにかが動くということが確実にあります。それだけのことを思いながら、大陸からきた人々がうたうインターナショナルのサビの部分だけをそっと唱和しました。
etikedo : 強制連行
 
 
おまえこそだれだ

Author:noiz
vivu anarkiisma komunismo!

 
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