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漢字問題に直面し、さしあたってルビをウェッブで使うには

2008
11-30
社会的障害である漢字を多用して人をサベツしてんじゃねーよ問題(1)につき、次善の対応として(決して最善ではない)ルビ=ふりがなを使う(2)という方法もあります。たしかに寄せ場の運動に見るビラにはふりがなが使われていますね。

ウェッブでルビをDIYしたい人。XHTML+CSS でマークアップする気力があるのなら、「ルビを振るには(CSS小技集)」などを参照しながらシコシコ記述してみるというのもひとつのやりかたです。文字列をにらむのが苦痛にならない人なら、マークアップの記述じたいはそうむずかしいものではありません。たんに労力がかかるというだけで。

しかしルビの機能からしてフォントフェイスをでっかくしたとしても、弱視の人にしてみればそれでも負担だとは思います。したがってどうしてもルビ対応をはかるんだという場合には、ページデザインそのものを実現する font-size にあわせて考える必要が出てくることもあるでしょう。デカ字にデカ字のラレツがたえうるデザイン、という。

脱線。仕事柄、漢字かなまじり文をどう組むのか・どう見るのかということについて思うことは多少あり、そんなこんなで知ったカナモジカイの運動を思い出してしまった。アラタ書体とかなつかしいー。

なお、私は字典をひいて表意文字としての漢字の意味を知ることじたいが楽しい、あるいはいろいろある書体に実現される象形そのものを愛でるという重度の漢字中毒者で、よく「きみの書く文章は見た目が黒い」といわれます。

(1)ひらがな あなーきずむに よーこそ。
(2)かんじのよめないドッペルゲンガー
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【転載】麻生邸のリアリティ ──ツアー・弾圧・救援を振り返る──

2008
11-28
祝不起訴確定。以下呼びかけ転載。
麻生邸のリアリティ ──ツアー・弾圧・救援を振り返る──

11月29日(土) 19時から
渋谷勤労福祉会館 JR渋谷駅下車:渋谷区神南 1-19-8

主催:反戦と抵抗の祭<08>実行委員会/麻生でてこい!!リアリティツアー救援会
提起:山口正紀さん(人権と報道・連絡会)

リアリティツアーは何をもくろみ、麻生首相とユデダコ巡査長は何を恐れたのか。警視庁によるツアー襲撃と公安警察の広報機関として機能したマスメディアがさらけ出したこの社会の現実を踏まえ考える。救援が紡ぎ出し、対抗メディア運動が切り開いた可能性を考えるトークセッション。発言自由。
「コーボーはタコの誤り」(わーつまんねー)の私服警官は巡査長だったんですか。ところでタコって心臓が三つあるそうですね。あの太々しさのアナロジーとしてはあり?

さて、「議会に翼を形成するものか」という宗旨のわたくしがフォローするのもアレゲなのですが、救援会のブログにはリアリティツアー弾圧を追及する政治家の発言がputされています。諸議員の追及のうち、おそらく阿部さんのが受けたレクチャーをきちんと踏まえて詰めたという感じでしょうか。憲法と公安条例の関係も追及してますし。書面での質問だから当然か。委員会質問では河村さんのべらんめえ口調、「ありゃしねえんじゃないですかね」が汲めども尽きぬ味わいです。国会質問で「YouTube」「当たり公妨」という言葉が出たのは初見かも。

それから、てめえは何もしないでいうのもアレなんですが、勾留を請求した検事はなんというんでしょう。人の身体を拘束しておいてずさんな勾留状を書いている検察官もいるんですよね。被疑者がメットなんかかぶってないにもかかわらず、勾留状に「黒ヘル過激派」とか意味不明なジャーゴンを書き込んじゃう時代錯誤な恥ずかしい人もたまーにいます。というわけで(?)強制捜査権・訴訟指揮権を持つ公務員への監視として、公安検事の氏名公表も一定有用かと愚考します。

何をなすべきなのか

2008
11-24
おはようございます。世界資本主義はスローガンばかりの道につきすすんでいますね。先週末のAPECのリマ宣言では「とにかく保護主義だけはやめておこう」と絶叫するだけ。
We will stand firm against any protectionist sentiment arising out of this crisis and maintain the process of reform and trade and investment liberalization and facilitation.

しかしインドネシア商業相のメディア向けの発言に見られるように、近いうちに「ある程度の保護分野が出てくるのはやむをえない」というリップサービスも出る始末で、共同宣言は実質的に張り子の虎といってもいいでしょう。WTOラウンドの年内妥結も悲鳴でしかありません。

世界的な株式市場の乱高下と長期低落傾向を見るまでもなく、実体経済への打撃はすでに深刻化しており、世界的大恐慌もいよいよ妄想ではありえなくなってきました。生産のファブレス化が進む北米帝国でかろうじて残されてきた基幹的製造業である自動車メーカー・ビッグスリーはすでに破綻寸前。あの詐欺的な住宅債を大量にくわえこんできた米地銀はばたばたと倒産し、地銀買収でスケールメリットをかせごうとしたシティなどの大手商業銀行さえあやうくなってきています。

米帝がデフォルトにいきつくのも時間の問題かもしれません。というのも、共和党政権下に発生した金融バブル崩壊の「共犯」状況をさけるかのようにオバーマ次期大統領は政策的な「空白」を続けているからです。ブッシュ政権はすでに死に体で、「市場」は次政権の無為を捉えて状況はますます悪化。オバーマはグリーン・ニューディールを唱えてきましたが、ルーズベルトの「最初の100日」で達成した修正資本主義的な「改革」には比すべくもないでしょう。それにニューディールは中盤で後退し(諸政策のための立法に違憲判決が出るなどした)、後期に対外戦争に突入することで変質したわけであり、社民主義による危機の乗り越えが可能なのかは不明だというしかありません。

ところで、米帝会計検査院の前院長だったディビッド・M・ウォーカーは面白いことをいっています。

「……日本とアジアのいくつかの国は、米国債の最大の保有国です。
  これにつきましては、皆様方の貯蓄の一部を私たちにご融資頂いて感謝申し上げます。ご存知のように、日本人はアメリカ人よりも、貯蓄に対するその必要性と重要性のより正しい認識を持ち合わせています。実際、多くのアメリカ人は消費が非常に得意ですが、貯蓄の方は非常に苦手と言えます。(中略)
 私の国でもその他の国でも、あまりに多くの政策立案者が、身近な問題や目の前の問題にとらわれてしまっています。彼らは近視を患っているのです。また、多くの人々がある時点で一つの問題又は彼らを代表とする政治的区域の目前の課題にのみ集中してしまって、視野狭窄に陥っているのです。皆様の多くも実際にご覧になったことがあると思います。国家や社会全体のニーズよりも、その時だけの要望に固執してしまう議員がいます。彼らの多くは次の選挙より先を見ることができないのです。(中略)
 ワシントンDCの政府指導者の多くは、明日に備えるより今日に生きようと決めました。波が静かに、しかし確実に沖合で強まっているにもかかわらず、意味のある改革をしよう、あるいは犠牲を分かち合おうという呼び声はほとんど聞こえません。事実、近年ではそれとは逆のことが起こっています。長期的な財政不均衡にもかかわらず、アメリカ政府は減税を拡大しながら、一方で追加支出を促すという、持続不可能な政策を追求しているのです。(中略)
  真の問題は現在の財政赤字ではありません。というのも、連邦政府の財政赤字はここ3年間連続して減少しているのです。それよりも、アメリカの将来における真の脅威は国債残高の増加と、我々の公的年金や医療保険制度として知られる社会保障、メディケア、メディケイドなどの、財源の裏づけがない連邦政府の公的給付プログラムです。これらのプログラムは、ここ6年間だけでも、他の債務と合わせた合計金額では20兆ドル(2,410兆円)から約50兆ドル(6,020兆円)に跳ね上がりました。
 これは、アメリカ政府は長期的に見れば恐らく守ることのできない約束をたくさんしている、ということを意味しています。理由を説明しましょう。50兆ドルというのは、アメリカのすべての家計がおよそ44万ドル(5,300万円)ずつの借金を負っている勘定になります。ここで考えていただきたいのは、アメリカの家計所得の中間値は年間5万ドル(602万円)に満たないということです。そして、この負担の伸びは、ほとんどのアメリカ人の正味資産やアメリカ経済の成長率を上回っているのです。」


日本人民の皆さまにおかれましては米帝のカモになっていただき大変ありがとうございます~ということはさておき、このような大状況をふまえれば、ケインジアン的な資本主義の修正を行財政支出の拡大をまねくものとして排撃する北米型リバータリアニズムやミナキズム(最小国家論)が一定の力を持つのは当然でしょう。北欧型資本主義のように高税率・ハイリターンというモデルが、巨大人口を抱える北米や日本に通有するでしょうか。日本経団連はすでに基礎年金財源の税金拠出化にかたむきつつありますが、政府‐霞ヶ関はその財源を間接税によって賄おうとする指向を示しています。日本では長期にわたって応能税(累進課税)が緩和され、租税の公平主義が「全員平等」に傾きつつあります。租税による所得の再配分機能が失われたわけではありませんが、間接税の比重加増の趨勢は動かしがたい事実としてあります。

さて、財政均衡を求め、官僚の腐敗を糾弾し、エンロン事件のときのように情報公開を妨害する政府要人を提訴さえする(1)この熱血漢はすでに今年2月15日に任期を残して退任していますが、かれの訴えは大局的には日本にもあてはまります。政府が巨額の財政支出を未来にむかって約束するという点では同じ穴のムジナ。問題は「貯蓄」をいかに金融市場に吐き出させるかということではなく、「政府の経済性、効率性、倫理、公平性、有効性を高めること」(ウォーカー)にあるでしょう。ウォーカーがいうように、求められているのはやみくもな民営化ではありません。財政の「効率性、有効性」に関して、ウォーカーはこの講演のなかで「経済の50%を超える予算を医療保険に充てています。しかしながら(中略)平均寿命は標準以下であり、乳児死亡率は標準を上回り、そして先進諸国の中では医療ミスの割合も高いのです。また、我々は主要な先進諸国の中では保険に加入していない人口の割合が最も高く、そして肥満では1番です」という事例をひきながら、財政改革の必要性を説き起こしています。

翻って鑑みるに、歴代の自民党政権が行ってきた「改革」は、ほんとうに公営部門の「経済性、効率性、倫理、公平性、有効性を高めること」に資するものだったのでしょうか。国鉄の分割民営化については、その下手人であった中曽根は傲然と国労の解体が真の目的と語っているとおり、必ずしも経済的な理由に純化できるものではありません。国策として強制された新幹線建設に端を発した赤字経営の責は、国鉄にだけ帰せられるようなシロモノではないのです。郵政民営化にしてもUSTR(米帝の通商代表部)の意を受けた「純政治的改革」という性格が強く、「効率」の面からいえば、本来は「特定郵便局」の問題であったはずが(特郵は簡郵に振り返ることでコスト圧縮は果たせたはず)、「郵貯・簡保に眠る資産の金融市場への開放」という金融資本のエサ場づくりの問題にすりかえられてしまったと換言できるのではないでしょうか。

確かに人口減少が迫っている「国」においては、「資源」の効率化を追求する行財政改革は必須でしょう。しかしその中身を精査することなく乱暴な「何でも民営化」は、社会の破壊をもたらすことにもつながります。特に社会資本や社会福祉にかかわる部門への正確な情報に基づかない政治的な攻撃は、めぐりめぐって「民」の自分たちの首をしめることにつながりかねないとすべきでしょう。もちろん地方自治体の財政窮乏化を放置すればいいというものでもない。八方ふさがりです。

今次の世界同時不況が深刻化すれば、外在的変革を世界に強制することになる。そうしてわたしたちの生活・社会がいかに「改革」されるのかということでは、すべての人間が無関係ではいられなくなります。景気回復のためにというかけ声のもとに資源は企業活動のために優先され、社会保障(social security)のラディカルな縮減による「社会不安」に対する治安警察・治安部隊(security police/force)の拡大という状況が現出する可能性も高まるでしょう。いますでに民間動員を伴うコミュニティ・ポリーシングが広がりつつあるのはいうまでもないことです。

一部のスビリチュアル派の人々は持続可能な経済理論としてサーカーらの「プラウト理論」に希望を見出しているようですが、協同組合型・コーポラティズム型の社会経済体制はもちろん「願う」だけでは「到来」するはずがありません。状況に抗する変革は到来するものではなく、なすものです。「予言」の「待望」の結果はゲームオーバー。

では高価なスピリチュアル商品さえ購入できない貧民はどうすればいいのか? 革命か改良か反動か。それら旧来のパラダイムを超越する何かなのか。「プラウト」にしても過去に現れた「ユートピアン社会主義」の焼き直しにすぎません。あらゆる人間が隘路に陥っているのは確かですが、突飛な回答はないと思います。われら人の子、地に這いつくばって「闘う」のみ。そのときようやくにして生存の主体性が各自厳しく問われることだけがわたしたちには了解できるのです。「たち」って誰だよ。

(1)エネルギー政策策定過程の情報開示を要求し、2002年チェイニー副大統領を提訴。コロンビア特別区連邦地方裁判所は訴えを却下。ウォーカーは控訴せず。

〈現場〉から遊離する経験──「反サミット運動」言説の浮遊性についての試論

2008
11-22
嫌なものを見てしまった。紙媒体にまとめている個人的総括のパラフレーズとなるが、先行してこちらで書くべきことを書くことにする。

以下は、今年七月のG8首脳サミットに反対する諸運動の一つの場となった「キャンプ」を振り返っての言葉である。サミット会期の直前の四、五日の札幌でのデモなどに参加する人々が滞在するために用意された当別キャンプに関するものだ。なお、サミット会期中は豊浦・壮瞥・伊達の三キャンプが設営され、運営主体は前二者と後者とで異なっていた。前者は「G8サミットを問う連絡会キャンプワーキンググループ」、後者は「反G8サミット北海道(アイヌモシリ)連絡会」である。厳密にいえば当別キャンプの運営主体にしても、一部は豊浦・壮瞥のグループと人脈が重なるものの独自の「国際交流インフォセンター/国際交流キャンプ札幌実行委員会」であった。
ただ、口では「オルタナティブ・ヴィレッジ」、「下からつくる民主主義」なんていっていましたが、いざキャンプをはじめてみると、例えば海外の人とかぜんぜん知らない人がやってくるわけだし、怖い。

なぜ「海外の人とかぜんぜん知らない人」が理由となって恐怖を感じなければならないのか私には理解できない。仲間を信頼しないのなら、なぜキャンプを用意したのだろうか。なぜ海外の活動者に参加を呼びかけたのだろうか。
 「札幌キャンプ」(結局隣町の「当別キャンプ」になったが)はそもそも、海外からの行動参加者を含め、低廉な宿泊先と交流の場を設けようとして企図されたはずだ。未知とはいえ、やってくるのは仲間以外にない。公安警察あるいはその手先の潜り込みに警戒・緊張しなければならないことだってあるだろう。しかしそれは「海外の人とか」の受け入れとは根本的に異なる問題だ。
 栗原さんの正直な吐露には感心するが、しかし同時に愕然とする。グーロバル資本主義に反対するという私たちの唯一最大の武器は、他者を信頼するということではないのかと、怒りというより悲しみの感情がわいてくる。
 サミット会期前の札幌市街へと合流していく「拠点」として設営された当別キャンプの別の人間も、基本的に海外の仲間を信頼していなかったと窺わせるにたる心根をあらわにしたことがある。「すべて済んだ」あと、東京でのことだ。現場にあっては「黙って動く」を地でいくあるセンパイが「違うんだよ。連中は話せば分かるんだよ」と反駁したが、苦い思いだけが残った。
 その「かれら」は、キャンプ防衛を理由としてなのだろう──確かにそれは重要な任務である──七月五日の札幌の「チャレンジ・ザG8サミット 一万人のピースウォーク」にはいなかった。だが、先に引用した栗原さんのインタヴューのなかには「七月五日のデモにしても、サウンドデモのように「反サミット」の表現を最大限追求するというスタンスはありました」という発言が出てくる。「反サミットの表現」とは何か。「追求」とは何か。旧来の運動とは異なるものとしての言及であるなら、それがどのように登場したのかということに私はこだわらざるをえない。
 なぜなら、当別キャンプその他から結集した「インターナショナルズ」(海外からの参加者)や「日本人」が参集したあの元気で華やかな「サウンドデモ」の隊列には、はっきりいって自前の「防衛」体制がなかったからである。「サウンドデモ」は正確には当別キャンプによる企画ではない。部外者にしてみれば遂に謎としてしか判断できないが、起きたことの結果から見れば、おそらくそれは有志によるものである。その有志のほとんどがそもそものキャンプ構想に関係していた、というところだろう。とまれ、「防衛」は確かに統一的である必要はないが、行動細胞を現場で組成して個々に行動して自衛するなら、そのことは事前に通告しておかなければ主催者や合流先の他の人々はフォローのしようもない。だがそうした情報共有も一切なかった。ではキャンプの役割とはいったい何であったのか。単に楽しく過ごすことだけが目的だったのか。そうではあるまい。
 「当別キャンプからの合流者をサウンドデモ参加者としてひとくくりにするな!」という意見があるなら、なるほどその通りだと思う。自力自闘が嫌なのであれば、あれほど警察が執拗にマークしていた「インターナショナルズ」、とりわけ「ブラックブロック」と看做された部分に同調しなければいい。別の隊列に行けばいいだけなのだ。しかし結果として当別キャンプから合流した多くの人が「サウンドデモ」の隊列を和気あいあいと構成したのだった。
 こうして、当別キャンプでは五日の「ウォーク」主催の構成や隊列の組み方などについてほとんど把握されていなかったであろう状況が、当日になってようやく主催者や東京の「G8サミットを問う連絡会」関係の一部に察知された。主催者側として動いた「防衛」担当は愕然としながらもその任務についた。思いはそれぞれあるにせよ、受け入れと「防衛」の協力については一致していた。仲間だからである。
 私自身、「G8サミットを問う連絡会/貧困・労働ワーキンググループ」の一員として、そして「防衛」役として「ピースウォーク」に参加していた。「防衛」担当者は連絡会・幾つかのワーキンググループから出ていた。当別キャンプ組や「サウンドデモ」が合流しようがしまいが、もともとそういう手筈になっていたのだ。私たちは最初の「市民グループ」の挺団にいたが、他のグループ・挺団も同様だった。「自分たちの隊列は自分たちで何とかする」。当前のことだった。
 そして、詳細は省くが、私が参加する隊列に「サウンドデモ」が合流することになり、私自身はサウンドカーを誘導する位置に立つことを引き受けた。しかしいったい誰に対して引き受けたのかといえば、主催側や自分たちの隊列に対してなのだから実に奇妙な事態ではあった。こんなバラバラの状況じゃパクられる可能性高いナーと覚悟を決めざるをえなかったが、しょうがねえなという気分にもなった。引き受けたその位置は警察にしてみれば「責任者」のフィールドにほかならず、また尋常でない数の公安連中の動きが最初から異様であったので、もういいやと思うしかなかったのだ。しかし周知のとおり、実際にはサウンドカーに乗車する人々が血祭りにあげられることで弾圧は終熄した。
 「サウンドデモ」の隊列に「防衛」の構えが存在せず、ただ「参加者」だけがいる多衆であったことに気がついたのは「ウォーク」直前の野外集会の最中だっただろうか。主催・連絡会側が準備した「防衛」担当に「サウンドデモ」の「防衛」協力が要請されるのは当然のことだとしても、自前の「防衛」体制がないままキャンプ組が合流してくるとはさすがに誰も予想していなかった。要は「丸投げ」──信じられない事態だった。
 この事態を裏付ける報告がある。当別キャンプ、前日の話である。
気を取り直して、そこらにいる人に色々と聞いてみたら、別に全体のコンセンサスがとれたわけではないとの答えで、各自バラバラというかそれぞれのブロックで集まって行動するみたい。どんなブロックがあるのかもよく分からないし、今更参加もできないので、まあ、明日は一人で好き勝手にウロウロしようかなとも思ったんだけど、オマワリ対策というか現地での行動に際しての防衛ってどうなってんのかしらと思い、手近にいた人に話しかける。うーん、典型的な空気の読めない人な感じ。なんだか、関係者と勘違いされたのか活動家っぽい人のところに案内されたので、まあ、素人考えを適当に話す。真面目な人なのか、訳の分からないよそ者の話を聞いてくれて、そこまではいいのだけれども、なぜか話が俺の知りたいことではない方向へと進んで、さらにほかの人との話し合いに進んでいき、そもそも部外者の俺がそんな話に立ちいっていいのか非常に微妙だし、実際、話すこともないので手持無沙汰になってしまう。で、その辺りでハタと気づいたことはよくよく考えてみれば当たり前の話で、事前に何か全体の決定とか統括があるわけではなくてその場その場で作り上げていく形になっているらしく、皆知っていることも知らないこともそれぞれにバラバラ。そういうものかと思いつつ、一応怖いので話を聞いてくれた活動家っぽい人に隊列の仲間がパクられそうになったりした時とかどうすんの?と心得を聞く。その場の状況次第とのお答。そりゃ、まあそうだ。

「その場の状況次第」。なにほどかの議論はあっても、要するに反弾圧の構えについては放置されたままの状況を反映する言葉だ。もちろん問われた「防衛」とは五日のピースウォークに対してのものである。だからここから五日にいたる「無防衛」を類推することはたやすい。リーガルサポートのことについて云々するのではない。それは「防衛」の一部にすぎず、むしろことが引き起こされてからの「救援」の範疇に属するものである。法的支援者たちの現場での「監視」は、あの異常な警察の動員体制の前には残念ながらほとんど抑止力とはならない。
 当別キャンプ滞在者の個々には「防衛」についてどうするのかと憂慮していた活動者もいたはずだ。しかし結果として「総体としての体制」は、引用テクストにあるとおりそのつくりからしてありえなかっただろう。憂慮する個々人は浮遊するしかない。旅行記作者は「部外者」と謙遜するが──「部外者」こそどんどん「立ちいって」、完全でありえない人の「運動」の中身を重層化していくのが望ましいと思う──この問いかけは実に重い意味を持っている。

II

話を戻す。ともかくその場で調整しようにももはや手遅れだった。自前の「デモ指揮」や脇固めの人間は最初から存在せず、声をかけ協力すべき対象が空白なのだ。いや、当別キャンプからはただ一人だけが主催側の「防衛」への合流をかって出た。しかしそれだけだ。後はキャンプ外の「ロートル」が三々五々「防衛」に自主的に協力しただけである。仮に「サウンドデモ」の隊列に参集した人たちのなかから「防衛」役が立ったとしても、事前に周知されない「防衛」はほとんど機能しなかっただろう。事実、黄色いゼッケンをつけた私たちはただ右往左往する滑稽なピエロのようだった。
 それでも弾圧の機会をつけねらう警備公安警察に対する仲間の「防衛」に汲々とした。唯一要請が何とかかたちになったのは、主催者の協力を得て「防衛」役が身をていして隊列を圧縮し、後ろにつかえたバスを通したことだった。バスの滞留を放置すれば「やるぞ」という警備警察からの恫喝がかかっていたため、あえてそうしたのだ。弾圧はそれからしばらくしてから惹起した。何か誤解している言説も多々見受けられるが、弾圧は警察が街頭を制圧した「安定」状況のもとにしかけられたものだった。むしろ「ウォーク」出発直後の比較的自由だった状況は、自主的なものも含め「防衛」側が警察の圧力の間に入って保障されたものにすぎない。その間「責任者」と目された私は何度も逮捕恫喝を受けたが、結果として見せしめの弾圧はサウンドカーそのものに集中した。
 札幌市条例の運用慣行なのだろう、札幌方面中央警察署の警備課の対応により、デモ申請だけで宣伝車両としてのトラックの荷台乗車に関しては事前にケリがついていたはずだった。私は実際に書類を確認しているが、確かに書類には荷台乗車に関する事項が明記されてあり、市公安委員がこれを「許可」していた。だからサウンドカーまわりの弾圧は、近畿管区公安部隊による中央署警備課の頭上越しのものだったといえるのだ。しかもいいがかりは荷台乗車そのものにつけられたのではない。もし荷台乗車が罪に問われなければならないのなら、ほんの二ヶ月前の「自由と生存の連帯メーデー」のデモも潰されていたはずだが、実際にはとどこおりなく実行されている。七月五日には、乗車ではなくDJ行為が「煽動」としてでっち上げられたのである。
 当別キャンプとの調整を課題として捉えるならば、キャンプ以外の人間すべてに手抜かりがあったことは否めない。事態は特定の誰かに責任を背負わせてすむようなものではなかった。
 それにしてもなぜこうなったのかという疑問は、「サウンドデモ」部分が弾圧をくらった後の対応に奔走しながらも、長いあいだ私のなかに沈殿してきた。いまはその回答の一つとして、こういうことがいえるのではないかと思っている。単純な話だ。多様者の衆議・調整の欠落。平たくいえば、各運動体・ブロック間でコミュニケーションができていなかったということである。皆それぞれ精一杯のところでやっていたとしても、このことは動かせない。
 いや、多様な個人・グループが参集する形態の大きなデモになれば、そういうことは往々にしてあるものだ。しかし当否は別にして、それが各グループごとの落下傘式の指揮系統に律されていく「既存の大きなデモ」として終わるものであれば、そして各隊列が自存するものであれば、一部の隊列が少々跳ねたところで大きな問題は発生しない。諸隊列ごとに自存の構えさえ確立していれば、統制型の指揮系統のあり方も内部で変革できるはずであり、また弾圧をくらったところでその部分で自ら救援を貫徹し、主催者に仁義を通すこともできるからだ。しかし異様な警察の動員体制からみても、五日の状況は根本から異なっていた。その上に運動ブロック間の連絡不足が露呈することになったのだ。
 イルコモンズが反G8運動に際会して「新しい運動」という積極面の評価に注力しているが、やはり弾圧被害者にこそそうした「積極的な捉え返し」が担われるべきなのだろう。そしてかれは以下のように重要な問題を提起するのだが、私には諸処で都合よく語られてきたことに対する留保としてしか「反サミット運動」について「書く」ことができない。
「書く」という場面でよく「運動の簒奪」とか「表象の横領」といったことが起きてしまうので、「文化表象のポリティクス」の問題以来そういう問題に敏感にならざるを得ない

私が「書く」ことは、負の側面の強調による「運動のダメさかげんを表象するポリティクス」ばかりに寄与するだろう。やはりそのことに忸怩たる思いがあるが、都合のいいことばかりですべてを「表象」させることの方により深刻な問題があるとも考える。そのくせ、いまできることといえば、コミュニケーション不在という〈私たち〉自身のしょぼくれた主体性の捉え返しでしかないのだ。情けない話だが、それが偽らざるところだ。特に五日の「ウォーク」については、主催関係者の越田清和さん以外にセンシティブな捉え返しの声は聞こえてこない。ほとんどが自分を棚にあげた「あいつが悪い」論の平行線。ウンザリだ。だからこそデモ申請者としての越田さんの率直な総括報告に敬意を表したい。
 さて、「サウンドデモ」は「参加者だけ」の隊列であったので、三人+一人(一人はロイターのカメラパーソン)逮捕の弾圧がしかけられた直後、現場の収集をはかったのは前述の「防衛」者たちである。デモ隊が抗議に専心する間に、弾圧をしかけた下手人どもと心ならずも折衝し、隊列の滞留、つまり二次的な大量弾圧を招きかねない「違法状態」を押し付けられる状況に抗議して「ウォーク」の再開をはかった。見ようによっては被逮捕者を見殺しにするのかとも受け取られかねない「防衛」行為だ。しかし「官許」の「デモ」である以上、滞留は「許可条件違反」をでっちあげられ、また「奪還」はよほどの力量・訓練がない限りやはり大量の二次弾圧にいきつくしかない。「奪還」できたとしても、「デモ指揮」や主催関係に報復弾圧がくわえられるだろう。そして「ウォーク」解散後の救援初動の手立て──情報収集、事後の「サウンドデモ責任主体」の擁立、対応策の検討、そして主催者との連絡。これら初動救援は「サウンドデモ企画」外の人間が有志としてあたった。
 当別キャンプその他から合流した「サウンドデモ」はサウンドカーの運転手にくわえられた最後の弾圧のあと、幻のように消え失せた。もちろん多くの人がデモ解散後、弾圧被害者が強制連行された札幌中央署におしかけ抗議行動・激励行動を展開した。この行動もまた救援の一環をなす非常に重要なものであり、これに取り組んだ人々にナニゴトかをいうつもりはない。しかし解散地点での呼びかけにもかかわらず、現場状況の確認のための情報提供に協力したのはほんの一握りの人々にすぎず(弾圧時に携帯電話などで撮影するスペクタクル好きな人たちはたくさんいたのに)、「サウンドデモ主体」のうちに救援主体を形成する機会はありえないという結果が待っていた。それも仕方がない。そもそも「隊列」独自の責任主体が不明(不在)であったのだし、それに五日以後は「サミット本番」として豊浦・壮瞥・伊達のキャンプが待っていたのだから。もちろんキャンプでの闘いは重要だ。
 こうして「サウンドデモ」の救援主体の形成は、当別キャンプや「サウンドデモ」にそもそも関与していない東京からの有志が慌てふためいて組織化することからはじまった。キャンプ関係者のなかからなかば強引に「サウンドデモ責任主体」として要請された有志と、札幌の有志の合流もあって何とか救援会として動ける基盤が形成された。連絡・組織化の合間にも諸種の困難な対応が続き、一段落したのは夜も更けてからだった。ここで特記しておくべきことがある。弁護士との連携含め、札幌の有志たちの厚誼がはたした役割の大きさについてである。「持ち込まれたサウンドデモ」は札幌の運動体の潜勢力に文字通り救済されたのだ。この力がなければ「サウンドデモ」はその犠牲者とともに死に体として記憶されることになっただろう。五日当日の当別キャンプの留守居役の名誉のために補足しておくと、かれらはキャンプを閉めたあと救援活動に合流した。豊浦キャンプからも一人が撤収後に救援に加わった。だが結局「サウンドデモ」には自存する主体は存在しなかった──自力の「防衛」体制すらない「デモ」だったのだからそれもやむをえないと自分に言い聞かせながら、私は初動の後も救援対策に自らを追い立てた。
 断っておくが、救援対策(対応)とは押し込まれた状況に対する「反撃」でしかない。そのことによって従来あった運動のポテンシャルが拡大することはまずない。もちろん支援のひろがりによる交流の強化ということはありうる。だがそれまでのことだ。むしろマスコミの煽動にのせられた「社会」によって被逮捕者が被疑段階から「犯罪者」扱いされて終わる。いったん弾圧がくわえられれば被害者の生活含め、元の状態にまで回復することは二度とない。賃借人であれば大家・管理不動産屋への公安のローラー作戦的な密告があり、ときに職場へも圧力が及ぶ。被害者の家族との関係も往々にして不幸な状態になる。それは社会運動の自己組織化における杜撰さを撃つものとなる。「容疑者」報道に呼応するインターネットでの圧倒的物量となって拡散する無責任な情報にどう対するかで諸個人・運動体のもつ力量も試されるが、ジャーナル消費社会への反転攻勢をかけるカンパニア(キャンペーン)の力量は限られているのが実情だ。消費サイクルの圧倒的なスピードには「容疑者」報道に抗するカウンター情報はほとんど追いつかない。しかも当事者だけでなく支援者・周囲も確実に疲弊していくのだ。「サウンドデモ」弾圧は洞爺湖に迫ろうとする三キャンプへのさらなる抑圧をもたらしただろう。特に豊浦では緊張と萎縮の効果が如実に現れたことが窺える。
 被逮捕者を不起訴で取り戻し、気がつくと七月も下旬になっていた。
 帰るところがあるだけましだ。豊浦キャンプで献身的に炊事に貢献した東京東部の仲間たちは野宿に戻ったではないか。荒んだ気持ちのままの帰路に自分が嫌になっていた。そして「海外からの招聘」「サウンドデモ」を企画しただけで実体的な防衛体制の構築を放り投げていた人々、そしてその無責任体制のもとにはしゃいでいた人たちを分かっているだけとっちめてまわるつもりでいた。いい気なものだ。だが東京に戻ってからも救援関係の対応は続き、その過程で考えれば考えるほど、その無責任さのエアポケット状況の現出に自分が無関係でありえないことに思い当たっていた。こうなることは分かっていたんじゃないのか。分かって放置していたんじゃないのか。確かにそうだった。実際かかわる余裕がなかったため、「インターナショナルズ」の招聘だとかキャンプだとか「サウンドデモ」だとかの脚光のあびる舞台に中途半端・無責任にでしゃばることを避けたのは事実だ。仲間とはいえ人の描いた請負の絵図に踊らされるのも願い下げだった。自分の参加しているグループの課題にのみ黙然と集中すればよいと考え、「ピースウォーク」へもその一環として参加するはずだった。そうしてネグレクトのツケがまわってきたのだ。
 もちろん当別キャンプでは様々な創意をこらした取り組みがあったはずだし、フラットなミーティングもあったことだろう。その結果、喧伝されるとおりの有意な「ディシジョン・メイキング」(合意形成)などがあったはずなのだ。しかしそれは溜まりのなかの経験としてのみ存在したとしかいいようがない。裏を返していえば、「ピースウォーク」の主催者、あるいは東京の連絡会・各ワーキンググループなどもそれぞれ衆議を繰り返していたはずだが、その肝要な情報についてはついに各自連携する外部にうまく共有されずにしまった。五日に混乱があったとすれば、それは主催者、東京の連絡会、当別キャンプが相互に情報共有ができなかったという点に起因している。この結論は越田さんが表明された反省の後を追うものでしかない。実に当たり前のことを総括としとてあげなければならないところに、私自身の情けない(無為の)主体性も収斂していく。
今回のように、いろんな年齢層・グループ・政治的主張も違う人たちが一緒になってデモをすると、サウンドデモをしたい人もいるだろうし、静かに歩きたい人もいる(そもそもピースウォークとサウンドデモを一緒にできるかという問題もある)。フランスデモをすると警察が規制することを知っている人もいるし、外国からの参加者のようにフランスデモしか経験したことがない人もいる。
 たしかにこれまで経験したことのないデモだった。デモ=ピースウォークを自己規制するというのはおかしい話なのだが、そうしないためには、参加する時の原則を決めておくことしかないのかもしれない。それは例えば、自分たちのグループは、ただ歩くだけではなく、こんなことをするつもりだ(場合によっては逮捕者が出ても)ということを、他の参加グループにきちんと伝えるぐらいのことではないか。
 日本各地からだけではなく、海外からの参加者も多かった今回のようなデモでは、この情報共有をもっと徹底すればよかった。大きな反省点である(こんなデモ、札幌ではもうないかもしれないが)。

III

そしてその情報共有の欠如とともに致命的な問題として出てきたのが、具体的な「現場」に依拠した経験の交錯がなかったということである。
 たとえば、七月三日に当別キャンプで「直接行動ワークショップ」が行われている。G8MNニュースによれば、それは「G8サミットを前に、欧米諸国での各種抗議行動における経験から学んだ手法を、日本の人々に伝えることが目的」だったという。
 この「欧米諸国での各種抗議行動における経験から学んだ手法」は、こういってはなんだが、実際には役に立つわけがない。もちろんまったく意味がないというのではない。G8MNニュースが伝えるように、「体験してそれに慣れておくこと、そして自分がどんな人間かを知り、実際そうなったらどうすればいいかを考えておくことが一番重要」(リサ・フィシアン)というのは、まったくもってその通りだからだ。人の身体は訓練されていないととっさには動かない。その心構えもできない。行為のディシプリンとしてはそうなのだ。
 しかしこのロールプレイを通じての「追経験」は、日本の社会運動が置かれる状況におけばただちに意味をなさなくなる。このロールが日本の警備公安警察の性質や実際の行動パターンを追究し、その前提のもとに組み立てられるものなら、それなりに有効な体験となるだろう。しかし「欧米諸国での経験」をそのまま持ち込むだけではダメだ。あるいは、G8MN TV の動画「国際交流キャンプ札幌 in 当別」(04:00あたりから)が伝える内容を見ても断言できる。このロールプレイは身体所作の訓練にはなるが、「日本での諸現場」という観点からすればほとんど無意味なのだと。
 ワークショップで実際に行われている諸動作は、開放された道路という一定の広がりをもつ空間のもとでの「自分たち」と警官隊という集団対峙の状況を想定している。日本の届け出デモではこうはいかない。付け狙われる人々の場合、最初から機動隊の過剰な「警備」に包囲されたまま行進が進むのだ。はじめから空間が圧縮されているのである。機動隊の包囲網の外には公安警察が手ぐすね引いて待っている。密集すれば実力闘争の構えととられ、警察からの襲撃は必至である。ではそれに耐えうるスクラムの訓練は? そうした具体的な状況をチューターは把握していない。ワークショップ参加者もそうだろう。あるいは山間の行動などで警察の急襲部隊と対峙したら? かれらは機動隊のような平地想定の重装備だろうか。あるいは追捕しやすいように軽装だろうか。いずれにしても動画で見られる訓練の想定からは外れている。
 現在は警察の監視活動に携わる道警OBは次のようにいう。
かつて、昭和30年、40年代の安保闘争で札幌中心部がデモ隊で埋め尽くされ、激しい渦巻きデモに警察部隊は手も足も出なかった警備、投石や鉄パイプで攻撃され多くの警察官が負傷した警備、火炎瓶が飛び交った大学紛争等の警備、そうした経験のある筆者からすると、この2つのグループのデモ等は子供のパフォーマンスにしか見えなかった。

「非暴力」をあえて貫徹したのであろう仲間たちにしてみれば、「子供のパフォーマンス」とされては納得しない人々もいるかもしれないが、警備公安警察が煽り立てていた「暴動」のイメージからすれば確かにその通りだろう。むしろ警察国家がしかけるセンセーショナルな舞台を土台から崩壊させるものとして「非暴力直接行動」などが戦略的に選択されるということがありうる。五日がどうだったかは当事者それぞれに聞いてみなければ分からないが、前年のハイリゲンダムサミット反対闘争におけるドイッチュラント各地のデモでアウトノーメの大部隊が実力闘争を繰り返した状況を鑑みれば、結果としての札幌での「非暴力」には警察の手にはのらない戦略的意図があったのだとも考えられる。事実、札幌では「破壊行為」は一切なく、ハイエナのごときマスメディアは犠牲者を欲し、警察発表そのままの報道に血道をあげた。結果として、より中立的に振舞おうとした商業メディアは地元メディアに止まったのだった。逆にCMC(市民メディアセンター)を拠点とする G8 Media Network などの独立メディアの機動力によって、即座に警察の蛮行が余すところなく暴露され、世界中に伝播する独立メディア運動が持つ力が示された。
 その職掌からして若返りを繰り返さざるをえない機動隊の方も「子供」といえばそうだった。指揮官に叱咤されながら混乱している様に人は何を感じるだろうか。デモは機動隊の訓練の道具とされもするのだ。それにひきかえ、弾圧の直接の下手人となった大阪府警とおぼしき公安課連中の鬼気迫る様相は異様だった。マル暴もかくやというどぎつい態度に、人を踏みにじりやがて愉悦の表情を浮かべる暴虐に改めて唖然となるほかなかった。不当逮捕に抗議介入しようとすれば「どりゃ!」(そして公妨でいっちょあがり)の世界である。警備の若手が頼りないにしても、制服の指揮官や、検挙・採証隊となる公安連中はしっかりとその経験を蓄積してきている。しかも五日当日は、私服以外の背広を着込んだノーネクタイの公安警察の別働隊も蠢動し、検挙の際には人払いの応援で介入してきていた。まさにがんじがらめだ。異常すぎるかもしれない。しかし実力闘争ひとつ存在しないのに、警察にしたがわないと目された部分への攻撃はこういうものなのだ。〇三年と〇六年に東京で惹起した二波のサウンドデモ弾圧も同様である。かかる事態は誰かが逆にレクチャーしなければ、海外からのチューターにはそうそう理解できるものではない。
 そもそも日本でも以前から「非暴力トレーニング」などが存在してるというのに、この具体性を欠いた二番煎じの真意が理解できない。これはチューターの問題というよりも、ワークショップを「著名な活動家」に依頼した側が描いていたであろう絵図と現実のミスマッチの問題ではないのか。あるいは「外人崇拝」の悲惨な物象化。
 さらにくわえていえば、チューターの善意を疑うものではないものの、「欧米諸国での経験」そのままの持ち込みという意図そのものが人を愚弄するものだと釘を刺しておく必要がある。諸地域の警察の性質について熟知しているのはその土地の活動者以外にない。「欧米」も糞もない。アジアのどこかの地域ならその地域の、日本なら日本の特殊性・具体性があるのだ。せっかくのロールプレイなら、なぜ日本の警察の体制をフォローしたものにアレンジしないのか。未開のカラードに教えてやるという意識なのか。「方法の直輸入」というメソドロジー(方法論)じたいに疑問も持たずプレイを受容するのも、どういう心情によるものなのか。日本の警察の街頭支配という事態は、過去の社会運動がもった荒振る力に対応する反動の結果だ。その歴史性をふまえない議論や訓練は徒労に終わるだろう。
 「新しい運動」がこうした欧米セントリズムをもてはやすうちに展開されるものなら、そんなものはごめんだ。私たちに必要なのは水平な信頼関係だけであって、エスノセントリズムは排撃の対象である。諸経験の持ち寄りは、その持ち込まれた経験じたいを、持ち込まれた地域固有の運動現場の具体性の俎上において改めて練り直すものでなければならない。絶対の経験などない。しかし運動現場の具体性に依拠することはインターナショナリズムを拒否するものではない。inter とは相互性の保証であって、特定地域へのおもねりを意味しない。だから個別性の累積から理念の創出へと続く〈現場の思想〉は、思惟のインターナショナリズムを獲得する展望を持ちうるのだ。そしてそうでなければ支配的な巨大資本のグローバリティにはとうてい対峙できないだろう。
 日本は世界に冠たる公安警察国家である。そして諸国家の警察国家化はなお進み、治安管理の技術も「民間」を動員しながら日々拡大深化する。むしろG8国家間の統治の技術の共有の方が社会運動の先を行く。そのことはサミット対策としての入管での「水際作戦」にも現れている。
 五日の「ウォーク」であれば日本の届け出デモのおかれる条件を考慮し、あるいはキャンプ地からの抗議行動についても同様に検討したのち、ではどうするかという戦術やロールプレイの中身がはかられるべきだったのだ。こんな簡明なことさえ踏まえられない言説としてのみ流通する運動論はまったく検討に値しない。「新しいアナーキズム」? 「新しい運動」? アカデミーを根城とする職業的インテリゲンチャには、まずもって文化帝国主義を克服してから「海外」の議論を参照してほしい。そして自らの現場の経験を読み直してほしい。現場がないなら出てくればいい。現場は常に具体的だ。運動論をものすというなら、諸処の運動現場の個別具体性のなかにおいて咀嚼するほかないのである。
 当別キャンプでの経験すべてにイチャモンをつける気はない。むしろ運営の恊働性や空間の自律性構築への努力などは、この管理‐監視社会のなかにあっては貴重な経験として評価されるべきである。イチャモンをつけるとすれば「欧米」基準のお喋りにあぐらをかいて疑わない緊張感のなさに対してだ。当別キャンプの参加者が具体性の想定を欠いたまま迎えたのが五日だとすれば、私はキャンプ運営の努力に敬意を払いつつも、その内部で展開されたためにする「欧米優位」の「運動論議」や「実践」の一切を無視する。社会運動のふりをした言説に恊働の努力を搾取されるわけにはいかないからである。
 五日の「ウォーク」の解散後、被弾圧者が連行された札幌中央署での抗議行動に参加したあるアメリカの活動者がこういうことをいっている。
デモをするのに許可が要るなんておかしい。(中略)
 今日気がついたのは、警察の命令にみんなが従ってるってこと。警察に「それをしてはいけない」と言われたら「わかりました」て感じで。代わりに「なぜいけないんですか?誰がいけないと言ってるんですか?」と聞くこともできるはず。それをやるにはすごく強くないといけないし、それをやると逮捕されることもあるけど、でも、やらないと何も始まらないでしょう。怖がってたらなにもできない。日本ではみんながすごく(権力側を)怖がっている気がする。

札幌市公安条例と道交法を把握したうえで、そして被疑段階での保釈制度もない状況で、起訴手続きぬきに最長二三日間も身体拘束されうる日本の detention system(勾留制度)を知悉したうえでの発言なら、その勇気を讃えよう。解雇・放校をおそれず、自らの生活破壊も辞さずに闘える人間は立派である。しかしときとして主体の「召喚」をまねく結果は悲惨だ。もちろんデモに許可がいる事態は確かにおかしい。条例が憲法違反であろうがなかろうがまったくそのとおりだ。無理無体の警察を意味なく怖れるのもおかしなことだろう。ではなぜ自力で無届けデモを敢行しなかったのか。機会は幾らでもあったはずだ。覚悟があるのなら届け出デモを陽動とする登場もありえたはずだ。がんじがらめにされた日本の届け出デモに参加したのはどうしてなのか。
 このような発言が出てくることじたいが、法が絶対無謬と信仰される社会的状況の問題、社会運動が置かれた状況や運動主体の力量不足、あるいは届け出デモの内実や主催者のスタンス──五日の「ピースウォーク」は申請段階で市条例の違憲を主張したうえで二車線開放を要求したものが、不当にも札幌中央署に阻まれ一車線規制デモとなった──などについての具体的な情報が十分に知らされず、その対応協議が「インターナショナルズ」やあるいは「日本人」の間でなされなかったのだということを示している。この人が当別キャンプ滞在者でなかった可能性ももちろんある。だが、具体的な制約状況を踏まえないかのような雰囲気は当別キャンプからの「サウンドデモ」合流者の多くに濃厚だった。「防衛」役の「調整」の努力が敵意に晒され続けたということがその証左である。「あいつらは警察よりたちが悪い」。解散地点で「インターナショナルズ」の一部から「防衛」者たちに投げつけられた罵声だった。
 警察が「俺が法律だ」として登場してくるとき、対応は二つしかない。従うか、突破するか。主体に準備がないときは最大限抗議しつつ「従う」しかない。それがいやなら警察の掌にのることになる届け出デモなどには参加しないことだ。反弾圧の準備があるなら好きにすればいい。ただし事後の対応は自力自闘が原則だ。代用監獄に落ちたあとの内外の闘いの経験も自分たちで掴むしかない。かつてイラク反戦運動が興隆したとき、東京のある部分では弾圧が続いた。World Peace Now という大きなプラットフォームが提起するデモに合流していて弾圧されたある部分は自力で何とかした。それが当たり前だった。しかしその当たり前は東京から札幌に持ち込まれた「サウンドデモ」にはなかったのだ。
 遊撃の結果の責任を背負わないですむ身軽な立ち位置からなら、誰でもが「怖がってたらなにもできない」と口にすることができる。「直接行動」は口先でならいくらでもいえる。潮が引いていくなかで救援活動を組み立てるほかなかった立場としては、レヒトシャフナー発言がそうでなかったことを願うばかりだ。
 だが、こういうからといって、私は「インターナショナルズ」やその同調者を断罪するつもりはない。問題の根因は情報共有(と衆議)の不在にあると先に示したとおりだ。他者のなかに自らを見出さない者は「大衆運動」の信義を無視することになる。
 これで「札幌サウンドデモの顛末」のすべてではない。「顛末」にいたる公然化できようもない問題が多々残されており、思い返すだけで暗然となる。しかしこの数ヶ月間、多くの人たちが黙りこみ、あるいは自分に調子のいいことのみを並べ立てた話ばかりが流通している。自己切開の態度はほとんど見られないかのようだ。であるならば私は絶望の総括を繰り返し提起し続けるしかない。別にどうかしようというのではない。必要なことは相互批判にすぎないのだから。

squatはいつも攻防

2008
11-20
北河内路上通信には、北河内の野宿者の情報だけでなく、海外のさまざまなスクウォット(住宅占拠)の情報が寄せられる。

同志Tの最新情報では、アムステルダムの占拠アパート群とプラーグの Milada スクウォットの攻防が伝えられているが、今月14日には同じプラーグにある Cibulka スクウォットが警察の急襲部隊により陥落した。強制排除の過程で4人が逮捕され、3人は数時間ののち釈放されたものの、1人が翌日まで拘束された。16日の日曜日には150人の抗議デモ。

ここに闘いなくして占拠もないという当然の摂理が示されている。

日本では、私有・公営とわず債権なく空家を占拠すればすぐにパクられる(人が立ち寄らない「幽霊」屋敷や廃屋を除く──オカルト・廃墟スポットに突撃する連中がふえているからこの但し書きもどうなんだかという気もするが)。

それどころか公共地での野宿すら排撃の対象になる。なぜか。自分が我慢しているからお前も我慢しろ、という奴隷根性の裏返しとしての嫉視が蔓延しているからだ。胸に手をあてて考えてみろ。われわれは、われわれの祖先は、どのようにして土地を手に入れたのか。あるいは奪われたのか。土地の所有は先占の盗奪にすぎない。盗品の売買で正当性がえられると思う心性こそ撃つべきだ。

共有地は個々の占有が衝突すべからざる空間で、誰もが「誰のものでもない」と遠慮しあう禁足地でなければならない、というひねこびた感情が強盗とその奴隷の心根を蝕む。使いもしないのにである。そうして官民の別なく、われわれ「屋根あり」のうちから排撃の下手人がいつでも登場するのだ。つまりその殺しの下手人とは、わたしであり、あなたである。

わたし自身は土地も家屋も私有していないし、したいとも思わない。だが、この土地私有の秩序に与する賃借人である以上同罪だ。その自覚なく、ひとの「闘い」に賛同することなどできるわけがない。


Pokus o vzkříšení Cibulky si vysloužil policejní zásah
Prohlášení napadených lidí z autonomního prostoru CibulkaPražští
squatteři vyrazili do ulic. Podívejte se, proč
Prague: Police attacked the recently opened space Cibulka

Report: Demonstrace za Cibulku na Palačáku
Squateři demonstrovali v centru Prahy kvůli policejnímu zásahu
Zhlédnuto: 173× Záznam z demonstrace proti policejní akci na Cibulce 動画

怒れるイーストラント(アイスランド)人民

2008
11-17
三大銀行を国有化して対外債務にほおかむりしても失敗しつづけ「国家崩壊のおそれ」まっただなかのイーストラント、国家と人民わけて考えましょうということで、何が何やら人民は金融資本主義に怒ってるぞ毎週デモ/抗議行動@レイキャヴィークのメモ。アナキストもまじってるよ。ちなみにラント全人口31万人(2007/10現在)。

★10月10日 200人
Protest in Iceland calling David Oddsson to resign 動画
中央銀行総裁 Davíd Oddsson の退陣要求。国家・金融資本が四面楚歌のなかインターナショナルおじさん登場 ;)

★10月18日 2000人
Protesters in Iceland Protest against Each Other 動画 動画 動画
ミュージシャンの Hördur Torfason 呼びかけと、テレビ番組司会者の Kolfinna Baldvinsdóttir 呼びかけの2グループによる。Davíd Oddsson の退陣要求。

★10月26日 2000人
Demonstrations and Flag-Burning in Iceland 動画 動画
HÚRRA! - Fánabrenna í Reykjavík
Hús hvalfangarans og stuttmyndin Flott tölva
経済破綻と政府・中央銀行の無策に抗議してとりあえず広場で旗を焼く。Akureyri(北部)と Seydisfjördur(東部)でも抗議行動あり。

★11月1日 2000人
Protests Continue in Iceland 動画 動画 動画
4台のトラックがデモ隊を先導し、国会議事堂前のAusturvöllur広場で大衆集会。首相と中央銀行の退陣を要求。

★11月8日 4000~5000人
Protests against Crisis in Iceland Get out of Hand
Myndir af hættulega fólkinu á Austurvelli - ennþá eitt mótmæla hi-jackið!
Ríkisstjórnin er ódýrt svín!
動画 監視カメラ捕捉動画 議事堂動画
フカすライダー+議事堂クライマー+警察が包囲される動画
なぜかバイク乗りがずらっと並んでフカしまくる(喚声)。Althingi(国会議事堂)に卵ほかが飛ぶ。一人の抗議者が「国は売り出し中」と示唆するため「Bónus」スーパーマーケットの旗を議事堂のルーフに吊るす。警察が動くも人民に包囲される。一人逮捕。

★11月15日 6000人
Large turnout for Reykjavik protests
Sterkur útifundur á Austurvelli - Þung undiralda 写真たくさん 動画 動画
もう雪が降りました……

cf.
Aftaka @
Manngildi ofar auðgildi Salvörさん
ipaimages シリーズ写真
IcelandReview 英語ニュースサイト
Nýir Tímar 抗議行動グループのflickr

金融危機は多極化をもたらすの?

2008
11-17
金融サミットはIMFの財政基盤の強化以外、具体的な取り決めは何もなく次回に持ち越しですね。のたうつ資本主義。金融機関・商品を監視下におくったって、国際条約つくって対応する法制度をそれぞれ整備しなきゃ金融市場は基本野放しのままになると思うのですが、現実はとりあえずスローガンだけはいってみたという。そんな悠長なことでいいのかしら? それとも規制具体化のアジェンダは水面下でつくったということなのかしら?

それからIMFの監視機能とやらの強化。そもそもアジア通貨危機で果たしたIMFの役割を考えれば、「金融自由化」「財政緊縮」を柱とするコンディショナリティの改革ぬきでは意味ないと思うのですが。G20で各国の財政出動をうたっておきながら、IMFのイデオロギーを放置したままでは矛盾してます。それにFSF(金融安定化フォーラム)で基準づくりって、多国間機関をよけいにつくってムダもいいところ。「新興国」も「仲間にしてやる」なら、IMF一本でいいのに。

それと国際的な通貨体制についてもドルもユーロも市場に見放されたままなので、脆弱均衡のままでいくしかないのでしょう。域内決済という局層で多通貨体制に移行する可能性もなきにしもあらずですが、現状のままではUSドル優位は変わらない。だから日本は米国債抱えたままドル支持の奴隷のふり、と。まあ様子見しかできないのは日帝の既定路線なんでしょうけれど、なんというか対米従属が「国益」とすませていられる事態なのでしょうか。

どうせ金不足で金兌換制の復活は現実的に無理だとしても、IMF管理下の帝国主義バスケット通貨つくっちゃうとか、無茶なウルトラわざを繰り出さないのかなーと思ってましたが、のたうつ欧米帝国主義の〈協調と見せかけて実は対立〉体制を無視した妄想がすぎました。

んで結局、制度変革が進まないままそうこうしているうちに米帝デフォルト→新通貨体制移行というアクロバットを打ち出すかもしれませんね(NAFTAお仲間、つまりカナダとメヒコをまきぞえにして)、といったら陰謀論にすぎるでしょうか。でもユーロも「お笑い通貨」化したままで、英ポンドもかなりまずい感じですし、いつ「第二・第三のアイスランド」が出てきてもおかしくない状態ですよ。ちなみにアイスランド国家は「自国民の財産以外は知らなーい」と自己破産状態でごねているので、さすがにIMFからの支援めぐって揉めてます。ここをマネロン基地に使っていたとされるロシア暴力団資本主義では12・13日と株式市場(MICEX取引所)が取引停止・再開を繰り返すジグザグ。すごいぞ金融資本主義。

陰謀論といえば、陰謀愛好家の皆さまにおかれましては、10月1日からの米陸軍部隊(CCMRF)の本土配備を受けて、「すわ、アメリカはすでに金融崩壊→暴動鎮圧対策をはじめた!」と大騒ぎのようですが……

たとえば日本では多極化論者の田中宇さんが代表的で、「国防総省傘下の「アーミータイムス」」が「名目はテロ対策だが、駐留部隊は、敵を殺さずに抑制する技能や、道路封鎖など、米国民が起こすかもしれない暴動を鎮圧するための訓練をする」と報じた、というんですけど、元記事ではそういう書き方にはなってないと思うのですが。唯一、「civil unrest」と出てくるくだりは以下のとおり。

They may be called upon to help with civil unrest and crowd control or to deal with potentially horrific scenarios such as massive poisoning and chaos in response to a chemical, biological, radiological, nuclear or high-yield explosive, or CBRNE, attack.

確かに they は help with civil unrest のためには may be called upon だっていわれていますが、これって CBRNE(のテロ攻撃)事態を受けての unrest だと読んだらヘン? in response が unrest にかかってないなら、まあ確かに unrest の help のためにこの部隊は動きうると読むことになるのですが。っと、直後に続く crowd control とは? このパラグラフ前後の文脈はながーいのですが、文末の追記としてこんなテキストが。

A non-lethal crowd control package fielded to 1st Brigade Combat Team, 3rd Infantry Division, described in the original version of this story, is intended for use on deployments to the war zone, not in the U.S., as previously stated.

crowd control package は war zone でうんぬんかんぬん、not in the U.S. だ、としています。

まあ全文をどう読むかを置くとしても、そもそも Army Times は「国防総省傘下」ではなく、USA Today などを抱える民間メディア大手のガネット社(Gannett Company)傘下の週刊紙なんですよね。つまり同紙がいくら個々の軍人の発言を拾っていたとしても、国防総省や軍が help with civil unrest とアナウンスしているわけじゃないんです。

ついでにいっておくと、2006年11月4日(土)には Army Times、姉妹紙の Navy Times、Air Force Times 、Marine Corps Times(すべてガネット系)がそろって当時の国防長官ラムズフェルドの退陣を要求する社説をウェッブ版としてポストしたんですが(なぜか今では Arny Times では当該記事が cannot be found で、トホホなことに WebArchives では Blocked Site Error、でも3日には他紙にアドバンスとして出回ってセンセーションを起こしたものが残っています)、「国防総省傘下」だったらクーデタ状況にない限り、そんな社説掲載できないと思うのですが。ペーパー版は6日(月)掲載。と思ったら田中さん、同じこと報じるのに「米軍系の新聞「アーミータイムス」が」としていました :)

なぜこのタイミングで北方軍を増強するのかという疑問がわくのは分かりますが、そんな今さら騒がなくても、そもそも軍隊って治安維持装置じゃないですか? ってぶっちゃけたらダメか。でも古今東西そうですよね、「危機」(誰にとっての危機が問題なんですが)になれば軍隊がでばってくるもんです。民間紙を国営部門傘下にでっちあげなくても、そのことは歴史が示すとおりだと思います。

話を戻しますが、実際に米帝にデフォルトされると困っちゃうのは米国債を買い支えてきた幾つかの中東産油国、ロシア、中国、日本ってことになるのでしょう。もっともやばいのは米国債を売ろうにも軍事占領されてて動きようがない日本か、という気もしないではないですが、どうするつもりなんだろうなぁ霞ヶ関と日本橋本石町は。米ドルの暴落→デフォルト、絵空事じゃなくなってきてるというのに一蓮托生を選んだら、それこそ日本で「暴動鎮圧」が必要になるかも? 米軍様が駐留しているので問題なしですか。

ヨタはともかく、北米国家破綻のシナリオについては、欧州ではナショナリスティックに読みが出ています。世界的な金融システムの破綻への道を的確に予測してきた(的中率5割?)と、2ch経済板の一部の皆さんに人気の Europe 2020(LEAP/E2020)は、『グローバル・ヨーロッパ予測報(GEAB)』 第28号で「2009年夏のアメリカ合衆国のデフォルト」(the US defaulting in summer 2009)の発生と「新ドル」(new Dollar)の登場を予測。Erope 2020 はフランス・ヨーロッパ万歳路線なので差し引いて見るべきですが(ユーロ過信しすぎとか)、同ビュレティンは米国の「公債・私債の爆発」(the explosion of their public and private debt)をあげており、これは痛いとこ突いてると思います。

米帝の財政赤字は2007年度で7386億3800万ドル(GDP比5.34%)。GDP比(2.8%、現行価格方式)からすればまあだいじょぶだろ? というのがふつーの反応。で、米帝国下の財政規律派で「議会の番犬」と呼ばれる会計検査院(GAO)が打ち出す fiscal exposures という指標(これ何て訳したらいいんでしょうね)では数値はさらに巨額となり、2007年度でおよそ52.7兆ドル(1)。これは「将来の」社会保障費・メディケア給付費用(まとめて implicit exposures と表現されている)などを含めた数値です。この“将来の支出”を負債性引当金(accrued liabilities)(2)として見るなら、確かにキツイかもしれません。それでも崩壊しないのはみんなで信じているから。

世界一の軍事力・経済力があるからといって、国家がいくら借金しても(ドルを刷りまくっても)だいじょーぶ信用しましょう、というのは信仰告白の世界です。なるほど、そもそも資本主義も一つの宗教的アーキテクチャなのだと見れば、それも自然なことなのですよね。国家資本主義も国家共産主義も、どちらも信心が基盤なのですよね。どうせ備えが何もない貧乏人は無宗教のまま頑張るしかないのですけれども。

要するに、世界の趨勢は多極化だ!ってはしゃいでみせることは、それぞれの信心がブロック化されるのだって告白するようなもの。あ、そうか、それじゃあ、信仰に裏付けられた規律(3)によって投機から一定防衛されるイスラーム金融(シャリーア金融)が世界の舞台に躍り出る日も近いってことですね? や、冗談抜きでIMFもイスラーム金融との調整はじめてますし、EUもまたバルセローナ・プロセス/欧州・地中海パートナーシップ(EU諸国と「テロリスト」リビアとの「雪解け」はこのプロセスを見ないと理解できません)~地中海連合を通じてアングロ・サクソン型資本主義が支配する世界からの脱却を進めてきたわけで、イスラーム金融に積極的なマレーシア・シンガポール・中東産油国の経済活動の世界的比重はなお高まるでせう。ラテン・アメリカ世界も部分的に社民主義を選択して反米圏域を形成しつつありますし、多極化かどうかしりませんが、経済ブロック化は進む……のでしょう。

(1)Fiscal Year 2007 Financial Report of the United States Government。その後も前院長ウォーカーが同様の警告を繰り返した。たとえば、Making Tough Budget Choices to Create a Better Future (PDF/TXT)。現院長代行ドダーロも基本路線を継承している模様。
(2)将来の支出を意味する引当金。支出原因が当期以前に発生しているという意味で負債に近い性格を持つものの、将来支出額が不確定なため引当金として見積計上を行うもの。
(3)クルアーンおよびシャリーアでは濡れ手に粟の利潤取得を禁じている。ということでタテマエ上は有利子金融は禁止。ただしストラクチャード・ファイナンスやプロジェクト・ファイナンスなど、利子をとるスキームに相当する仕組みはある。(が、やはり空売りやショートなどの投機的行為はやりにくくなっている)
 cf.
 - Dar al Hannah - イスラム金融ブログ
 - 経済グローバル化とイスラム金融
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カジノ資本主義のゆくえ

2008
11-15
三年寝(てるだけ)太郎の今日この頃、皆さんはいかがおすごしでしょうか。

今週末はG20の金融サミットです。すでに欧州の一部では証券化商品などの危うい金融商品への抜本的規制をかけようとする動きが表面化していますが、北米金融帝国はこれによく抗しえるのかどうか。資本主義体制の維持が基調路線でしょうが、「修正」されるかどうかが見物だと思います。

というのも、金融商品を買えない私たち貧乏人にしてみてもコトは無関係ではないからです。「見てるだけ」のつもりがありえない、いったいこれはどうしたことでしょう。長くなりますが、スーザン・ストレンジの『カジノ資本主義』の冒頭から一部引用します。
 カジノと同じように、今日の金融界の中枢ではゲームの選択ができる。ルーレット、ブラックジャックやポーカーの代わりに、ディーリング〔売買〕──外国為替やその変種、政府証券、債権、株式の売買──が行われている。これらの市場では先物を売買したり、オプションあるいは他のあらゆる種類の難解な金融新商品を売ったり買ったりすることで将来に賭をできる。遊び人の中では、特に銀行が非常に多額の賭をしている。きわめて小口の相場師も数多くいる。アドバイスを売っている予想屋も、騙されやすい一般投資家をねらうセールスマンもいる。この世界的な金融カジノの元締めが大銀行と大ブローカーである。彼らは、いわば、「会社のために」プレーしている。しかし、長期的には、最もよい生活をするのは彼らである。
 現代の銀行員やディーラーは、昔の人が考える金融の世界や典型的銀行とは全く別の世界で働いている全く別の人間であるかのように見える。銀行員は、威厳のある顔をして、控えめな濃紺の細い縦縞のスーツを着た、用心深くて慎重で、顧客の預金の守護者であるという世界の評判を気にしている、誠実で落ちついた人物である、と考えられてきた。しかし、国際金融システムを賭博場と非常に似たものにしてしまった、何か根本的で深刻な事態が起きたのである。それがいかにして生じたのかは明らかではない。
 確かなことは、それがすべての者に影響を及ぼしていることである。自由に出入りができるふつうのカジノと、金融中枢の世界的カジノとの間の大きな違いは、後者では我々のすべてが心ならずもその日のゲームに巻き込まれていることである。通貨価値の変動は農民の農作物の価値を収穫前に半減させてしまうかもしれないし、輸出業者を失業させてしまうかもしれない。金利の上昇は小売商の在庫保有コストを致命的なまでに引き上げてしまうかもしれない。金融的利害に基づいて行われるテークオーバー〔企業買収〕が工場労働者から仕事を奪ってしまうかもしれない。大金融センターのオフィス街のカジノで進められていることが、新卒者から年金受領者まですべての人々の生活に、突然で予期できない、しかも避けられない影響を与えてしまうのである。金融カジノでは誰もが「双六」ゲームにふけっている。サイコロの目がうまくそろって突然に幸運をもたらすか、あるいは振り出しに戻ってしまうかは、運がよいかどうかの問題である。

少し補足しておくと、ここでいわれている銀行とは投資銀行(investiment bank)やマーチャント・バンク(merchant bank)のことで、商業銀行(commercial bank, 日本では普通銀行に相当)を想定すると理解しづらいかもしれません。なお、北米で強壮を誇った投資銀行はすでに壊滅しました。ゴールドマン・サックスとモルガン・スタンレーは投資銀行業務から逃げ出して商業銀行の陣地に立てこもり(どこまで死んだふりするのか見物)、リーマン・ブラザーズは破綻し、メリルリンチはバンク・オブ・アメリカに、ベア・スターンズはJPモルガン・チェースに身売りしました(こちらも他人の懐のなかでどこまで死んだふりするのか見物)。つまりカジノ資本主義のリーダーだったトップクラスの投資銀行は軒並み死滅した(一部死んだふり)も同然、というのが現況。今次の金融危機を捉えて「ウォールストリートは死んだ」(The Wall Street ... ended)とする表現が出てきたのはこのためです。しかも生き残った米金融機関はそろいもそろって公的資金の注入を受ける始末(JPモルガン、シティ、ウェルズ・ファーゴが各250億ドル、バンカメが150億ドル、ゴールドマン、モルスタ、メリルリンチが各100億ドルなど)。確かに北米金融帝国の内部崩壊があったといえるわけで──ただし莫大な「資金」はダブついたまま徘徊中──事態はまさに革命的。とはいえそれは自壊による革命的状況なわけですけれども。

さて、引用したストレンジの主張は、まるで現在の金融危機に対応したものであるかのようにも読めます。しかし彼女は1998年に死去しています(nikkei BPnet「市場に侵食される国家見据えた『カジノ資本主義』の著者逝く」)。『カジノ資本主義』の原版 Casino Capitalism は1986年に刊行されています。つまり「カジノ資本主義」というストレンジの規定は、ワシントン・コンセンサスのもとに金融自由化が進展していく状況を最初期に分析した言葉であったのです。

私のような貧乏人にしてみれば、いずれのカジノゲームにしても遠い世界のできこと。ゲームにくわわる余裕もないし、そうしたいとも思いません。しかしゲームの破綻がもたらす結果については、いやがおうでもその影響にまきこまれるという意味で、「プレーヤー」の一人にさせられてしまうことには違いありません。金融市場の肥大化により、実体経済(実物経済)が経済全体にしめる割合は一割以下ともいわれていますが、金融資本が産業資本を圧倒的に「支配」する(というより、影響下に置いてしまう)経済構造のもとでは、金融市場がひとたび危機に陥れば、めぐりめぐって実体経済にも悪影響が及ぶのは自明の理だということが、すぐにでも想像がつくでしょう。

今次の金融危機も、やはり「持たざる者」にも影響を及ぼしつつあります。OECD諸国のリセッションの懸念(OECD東京センター「日米欧の経済見通し」)というマクロ的な動向だけでなく、日本では実際に製造業における期間工や派遣労働者の馘首の動きが表面化しています。また「エコノミスト」の皆さんが「分析」してくれるように、「消費者マインド」の冷え込みはより深刻化するでしょうし──私はいつも冷え込んでますが!──、円高・原材料高による(外需依存の)経済へのマイナスの影響も続くのでしょう。公金投入のスキームのもとでは、「金融強化」のツケは金融ゲームには加わっていない人間にもまわされることになります。何が何やらよくは分からぬまま、「持たざる私の台所」も段々と締め付けられていくわけです。

ストレンジの『カジノ資本主義』も、その約10年後に登場したヤーギン=スタニスローの『市場対国家』(→原著のウェッブコンテンツ版)にしても、「市場の勝利」を動かしがたい現実として見ながら、市場の規制あるいはルール作りが必要だとしています。しかし、米・ブッシュ大統領は金融サミット一週間前に「市場主義を放棄するな」と強い牽制球を放っています(REUTERS「米大統領、G20で自由市場主義を放棄しないよう要請へ」)。それぞれに規制強化をもくろむ独仏の対抗的な動向もあり(REUTERS「焦点:金融サミット開幕へ、政治対立で成果限定か」)──ドル対ユーロともとれる──、はたしてどれだけの市場「改革」がなされうるのか、あるいは単に政治対立を表面化させて終わるのか、ここは正念場になると思います。日本政府はIMF強化などを柱として市場の協調監視なども提言するつもりのようですが、なにせ対米従属が国政の行動綱領ですから北米帝国に睨まれれば黙り込むしかありません。

ストレンジが20年も前に示したような、資本主義を前提としてもごく常識的と思われる処方すらはかれないとなれば、今後、金融資本主義の動揺はより深刻化するほかありません。詐欺まがいの商品を売り抜けた人たちは野放しのまま、コストのツケをいったい誰が支払うことになるのかという疑念はいっそう強まるでしょう。麻生政権は、税金の還流にすぎないものをお年玉と目くらましたつもりでばらまいてる場合ではないのです。

であればこそ、いまや「市場対国家」ではなく「市場対社会」というパースペクティヴが必要なのだと思いますが、そもそも日本には「世間」があっても「社会」がないのではないかというハナシも……と、ヨタはともかくとして、「社会」の側からの資本主義への規制が必要なことはもはや覆い隠せない状況でしょう。議会外の社会運動の役割はこういうところにもあると思います。それを「修正資本主義」として揶揄することは簡単ですが、「修正」すら困難なのが現状です。

というわけで(?)、東京で行われたG20対抗アクションのフォト・リポートへのポインタを置きつつ、『カジノ資本主義』の再読に戻ります。

「見込み通り過激派が関係していることが分かったため」という「警視庁関係者」は「過激派」の定義を明らかにせよ

2008
11-14
JanJanニュース:犯罪構成せず ネット映像がバラした「麻生邸事件」逮捕の3人より

「警視庁関係者」がもらしたところによると、リアリティーツアーに対して、警視庁公安部のうち(デモ担の)公安総務課ではなく公安第二課の登場となったのは、「見込み通り過激派が関係していることが分かったための手入れ」という。

「過激派」……語るに落ちてるな。「過激派」とさえいえば、何でもできると思ってる。それに「見込み」って何だ。「警視庁関係者」はどのグループ・個人が「過激派」なのかいってみろ。

さて、JanJanのニュースでは「ゆでだこ」は「公安二課の班長クラス」とされているが、救援会側では「一課のうわさあり」。確かにこの人、二課がでばってくる無党派の集会やデモでは見たことのない顔なんだよね。移動になったのか、当たり公妨(転び公妨)の名手としてキャップの私服とともに選抜されたのか。

いずれにせよ
イベント名が「反戦と抵抗の祭」とあることから「反戦」=極左過激派と見て主催団体を内偵した
という「警視庁関係者」の頭のなかは見事なお花畑。「極左過激派」ではない「反戦」派の人々もたくさんいることは警視庁公安部だって分かってるだろうに、「警視庁関係者」はどうしてこういうことをいうのかな。「過激派」という言葉さえ持ち出せばみんな納得してくれると思うほどおめでたいのかな。

「反戦と抵抗の祭」をやってきたのが「過激派」というなら、「過激派」とはどういうものであるかを「警視庁関係者」は明らかにする責任がある。でも、フェスタの人々は「テロ」「ゲリラ」路線じゃないわけで、なぜこの人たちが「過激派」なのかってことは説明できるわけがないのだけれど。

青木理氏、公安警察について語る

2008
11-13
リアリティツアー救援会経由:青木理氏が公安警察について解説
OurPlanet TV: ContAct: 渋谷・路上逮捕を解剖する

しぶい人選。さすがアワプラ。

勾留と拘留

2008
11-07
口幅ったいようですが、よく見受けられる間違い。
  • 拘留は1日以上30日未満の範囲で受刑者を刑事施設に拘禁する刑事罰。要するに裁判で確定した科料の一種
  • 勾留は捜査段階から起訴段階(公判段階)にかけて行われる被疑者(被告人)の身柄拘束処分。「刑」ではない

勾留は黙秘のせいではなく、警察の被疑者攻撃の手管によるもの

2008
11-07
リアリティツアー弾圧をめぐって、勾留されていたのは黙秘しているからだ、という主張が散見される。それは間違いだ。

公安事件の場合、黙秘していなくてもたいてい勾留がつけられる現実がある。実際、わたしはとある弾圧事件で、被疑者が取調べに応じて黙秘していなかったにもかかわらず、勾留が請求され認容された困難なケースに支援者としてぶちあたったことがある。届け出デモ中、被疑者が機動隊の過剰警備に抗議したところ公務執行妨害で現行犯逮捕されたという事案だった。結果として不起訴ですんだが、不当きわまりないデタラメな調書がとられていたため、被疑者は起訴されれば「有罪」となる可能性もあった。

拷問に近いやり方で被疑者の意図に反した供述調書をあげるのは警察の常套手段であり、その不公正さの横行は驚くにあたらないほど常態化している。これと見込んだ被疑者や「参考人」を何が何でも落とそうとする警察の抜きがたい体質のために、松本サリン事件で犯人扱いされた河野義行氏が被った苦難はよく知られるところである。

そもそも黙秘しているから勾留されるのだ(勾留されてあたりまえだ)という主張は、被疑者の防御権を否定する危うい感情論である。仮に警察なり検察なりが、検挙に絶対的な自信をもっているのなら「氏名不詳」のまま起訴すればよいだけだ。起訴もしないで勾留して被疑者を手元におき、取調べで粘着的に攻撃するのは、公安事件の場合であれば、単に被疑者への転向強要と被疑者以外の情報詐取を目的としているからにすぎない。

黙秘権については、日弁連が『被疑者ノート』の冒頭で次のように述べている。
 憲法38条1項は、「何人も自己に不利益な供述を強要されない」と定め、黙秘権を保障しています。また、刑事訴訟法198条2項は、「取調べに際しては、被疑者に対し、あらかじめ、自己の意思に反して供述する必要がない旨を告げなければならない」と定めています。被疑者は、取調官から供述を迫られたとしても、黙秘権を行使し、供述を拒否することができます。一切の質問に対し、何も答えず、黙っていてもかまわないという権利です。
 黙秘権は、権力が、無実の人からも無理にウソの自白をさせてきたことの反省から生まれたものです。世界のどこでも、近代国家であるかぎり、このような黙秘権が認められることは、当然のことです。黙秘権を行使することは、決して、間違ったことではありません。
日本では野蛮な代用監獄制度がまかりとおっているので、警察による無制限の取調べが事実上可能であり、現に行われている。何時間でも何日でも、勾留中は幾らでも取調べ可能なのだ。長時間の取調べで繰り返される被疑者への人格攻撃は拷問に等しい。リアリティツアー弾圧被疑者に対してもとうてい許されない精神的拷問が行われた。

無制限の取調べ制度下にあって、「黙っていると○○になるぞ」(○○は恫喝のフレーズ)などの警察の「捜査」手法が数多くの冤罪をうんできたことへの懸念から、取調べ制度の改革を目指す弁護士の任意団体であるミランダの会が1995年に結成された。日本の取調べの野蛮さについては、同会の自己紹介「ミランダの会とは」に端的にまとめられているので参照されたい。ミランダの会に集う弁護士の活動に対する警察・検察の本体がまたふるっている。「私どもの弁護活動を「違法」と言って攻撃し、依頼人に向かって弁護人の解任を迫ったりする事例が後を絶ちません」。

【転載】// でてこい3人! でてこい麻生!! // 麻生邸リアリティツアーの不当逮捕に抗議する集会

2008
11-06
http://asoudetekoiq.blog8.fc2.com/blog-entry-25.html

// でてこい3人! でてこい麻生!! //
              麻生邸リアリティツアーの不当逮捕に抗議する集会

○日時:11月6日(木)19時~
○場所:総評会館203号室(千代田区神田駿河台3−2−11 TEL03−3253−1771)
○交通:地下鉄東京メトロ千代田線「新御茶ノ水駅」B3出口すぐ。東京メトロ丸ノ内線「淡路町駅」B3出口徒歩5分。都営地下鉄新宿線「小川町駅」B3出口徒歩3分。JR「御茶ノ水駅」聖橋口徒歩5分

■ 主催:麻生でてこい!! リアリティツアー救援会 ■
連絡先:asouq@sanpal.co.jp
blog:http://asoudetekoiq.blog8.fc2.com/


  10月26日、反戦と抵抗の祭〈フェスタ〉のプレ企画である「リアリティツアー2——62億ってどんなだよ。麻生首相のお宅拝見」において、3名が不当逮捕されました。現在、3名ともに10日間の勾留がつき、いぜんとして身柄を拘束されたままでいます。わたしたちは、警察によるいわれのない弾圧に、はげしい怒りを感じています。
 しかし、世の中に無数に存在するツアーのうち、なぜこのツアーだけが妨害されたのでしょうか。いまわたしたちの身のまわりで生じている「格差」「貧困」は、あきらかに政権与党の政策に原因があります。小泉から安倍、福田にいたるまで、政府は金持ちを優遇する一方で、貧しい人びとを切り捨てる新自由主義政策をすすめてきました。麻生内閣も、従来の政策を変更するきざしはまったくありません。
 最近の報道では、土地だけでも62億円といわれる大豪邸に住み、射撃や飲食にいそしんでいる麻生首相の浮世ばなれした暮らしぶりが報じられていました。ツアーは、そんな人物が 「格差」「貧困」の問題を解決できるのか、大豪邸をこの目で見て、話をしてみようという趣旨のものでした。警察は、このような趣旨をもったツアーを意図的に妨害し、不当逮捕を行ったのです。
 わたしたちは、警察の非道をぜったいに許すことができません。ありもしない罪を着せようとしている警察に断固抗議し、3名をすぐに釈放させるために、ぜひいっしょに声をあげてください。

 3人を返せ。「格差」「貧困」を作りあげてきた責任者であり、今回の警察の不始末の責任をとるべき立場にある麻生太郎首相はここへきて応えろ。
 でてこい3人! でてこい麻生!!

リアリティツアー被弾圧者、三名全員釈放

2008
11-06
本日、リアリティツアーの被逮捕者、三人全員が釈放されました。午後二時から予定されていた勾留理由開示請求公判は中止です。午後七時からの総評会館での集会は開催されます。「3人でてこい」「でてきた」の「奪還」集会ということになると思います。

あんなひでーでっち上げで起訴されたらたまったもんじゃないわけですが、最近の(この界隈への)政治弾圧の動向もあるし、首相シフトということで見せしめ的な重罰攻撃になったらやだなぁと思ってはいたんですよね。んで、警視庁公安部とその意を受けた地検が起訴に持ち込まなくても嫌がらせで勾留延長をかけてくる線もあるかなとも思っていたのですが、それもはねのけ、一回の勾留だけで「奪還」できたのは実に多くの皆さんの支援のたまものでせう。

そして何より救援で奔走した皆さんご苦労様でした。被弾圧者の日常復帰についてはむしろこれからが大変だと思いますが、とりあえずは、一勾ですんでほんとよかった。

p.s.
今日のところは処分保留でのパイでしょうけど──釈放指揮書には処分については書かれない、釈放時点ではまだ処分未確定──担当検事は公安関係だろうから結果的にはもっともらしく起訴猶予処分にしてくる可能性が高いと思います。本来なら「嫌疑なし(不十分)」による不起訴が相当だと思いますが、そこまで追及できる体力があるかどうかが、こういう弾圧事件に対峙する人たちにとってキビシイところなんですよね。自己組織化の力量の問題が問われているという。いきなり渋ちんなハナシをしていますが……わたしは外で勝手に喚いているだけの無責任やろーということで、笑って流してください。

ちょっとひとことデモ

2008
11-06
学園祭でデモだそうです。
ひとこというためにデモ、いいな。
当局にやられないように気をつけて頑張ってください。

11.16 立命にちょっとひとことデモ
http://www.geocities.jp/hitokoto_demo/

生きてやりかえせ

2008
11-04
警視庁渋谷警察署の宇井警備課長が公営暴力団の跳ね上がりで、警視庁渋谷警察署警備課公安係長・伊藤警察官と佐野警察官とが公営暴力団の拷問係であることは、もはや覆いがたい事実である。

違法逮捕(特別公務員職権濫用)と違法な取調べ=精神的拷問(特別公務員暴行凌虐)を傲然と行い、それでも公務員だとふんぞりかえる。警察の公務とは人間を踏みにじることなのか。ならばかれら公営暴力団こそ「構造改革」─解体されるべきである。

わたしは警備公安警察の屑どもを公営ヤクザとは呼ばない。現代社会においてヤクザは蛇蝎のごとく嫌われる存在だが、かれらはまた、この階級社会の矛盾を体現するものとして必然的に生み出されてきた存在だからである。かれらは「反社会的存在」と決めつけられながらも、なおも社会の子としてある。かれらは他者を抑圧し、そして抑圧されるものとして分裂せざるをえない、矛盾する存在である。そうしてただ生まれ落ちた場の違いという偶然によりかかる醜い差別のもとに、スティグマ(負の烙印)を投げつけられてきたのである。この意味において、かれらはわたしたち貧者の本来的な「敵」ではない。

しかしかかる人間社会の分裂状況を利するものがいる。富の分配を制圧する「勝者」が「反社会的存在」を階級矛盾の影の調節弁として利用し、使い捨てているのだ。そうしてわたしたちはともに相争う存在へとごまかされ続け、資本家一族が首相となる国政を受容していく。だが、麻生家はいったいなにをやってその富を築き上げてきたというのか。人を殺して莫大な財をなす。先の大戦を見るまでもなくこの地の閨閥は血塗られている。わたしたちは他者の血の海のなかで窒息する存在にすぎない。

警察はこの矛盾の弥縫を補完し糊塗する国家的暴力装置にほかならず、わたしたち権力を持たない貧しい人間の前に立ちはだかる。かれらもまた矛盾をあらわす存在である。だが凶悪な公営暴力団員には人の子としての最低限の「仁義」すらありはしない。警察はただただ治安維持のための暴力機構の歯車としてのみ存在せざるをえないからだ。これは任侠喪失という現代ヤクザの変質をもってしても均質化できる事柄ではない。だからこの暴力団を公営ヤクザと呼ぶことは私にはできない。

しかし、いったい誰のための治安なのか。

麻生首相をはじめ富める国政政治屋たちの治安と財産が守られても、それはわたしたちに無縁の治安維持である。わたしたちの収奪され搾取され侮蔑される多数の生存はもはや限界のきわみにある。貧者の安楽は最初からなく、無の存在としてその生すら圧殺されようとしている。逆に、その生への意思を声にしてつぶやくだけで治安を乱すものと決めつけられ、連行・監禁され、人の日常からは見えない領域へと葬り去られる。

リアリティツアー弾圧事件=渋谷事件への反撃は、階級政治の本質を暴露するものとして闘われるだろう。首相が誰であれ同じことだったのだ。

わたしはこの闘いを支持する。そうしなければわたしもやがて殺されるだろうからである。

自殺は殺されるということにほかならない。わたしは自分が殺されないためにも「生きなければならない」。「生きさせろ」ではない。誰がなんと辱めようと「生きる」のである。渋谷二号、他の二人の健闘を祈る。そしてともに生きよう。ともに生きるということは、ただそこに、殺されずに生きて在るということだ。だからわたしは三人を奪い返さなければならない。

痴漢から友人を守るのは正当防衛です

2008
11-04
一つ前の記事「麻生で逮捕:「転び公妨」というより「当たり屋公安のだまし討ち逮捕」について」で、詩人ミスラ氏の「「麻生邸見学ツアー、無届デモで逮捕」についての考察」を検証したら、なぜだか追記されました。

どうも「一人目」(プラカードの人)の被逮捕者が「公安条例違反」と後付けででっち上げられた可能性が高く、現場では被疑事実不明のままパクられたという指摘にはふれずに、「公務執行妨害」でさらに二人もっていかれる状況についてのお説の補強だったようですね。その主旨は、早期にツアー参加者がプラカードの人の防衛に動いたから「よし!」以下の公安の恫喝を引き起こしたというもの。

先の記事では分かりづらかったかもしれませんが、プラカードの人は正体不明の人物に違法行為をはたらかれた、これが大前提です。それなら2chの「【10・26】麻生太郎私邸襲撃を阻止するオフ」スレ80の方が、よっぽどよく事態を捉えていると思います。プカラードの人は私服に「突撃タッチ」(by 同スレ)されているんですよ。

警官の違法行為があったと判断できないのは、逆説的にいうと、私服=警官だという予断をもっているからではないでしょうか。でも冷静に考えてみてください。所属を明らかにしない私服のオッサンがつっこんできて、いきなり自分の脇腹に腕をまかれる。私ならこう思います。

「えっ 痴漢?」

だってそうでしょ。体裁は私服で、一見して警官とは分からない正体不明の不審人物にいきなり抱きつかれるなんて怖すぎます。プラカードの人は公安(私服)も分からないのかって「経験者」度を問いつめても無意味です。まあ「私服がつっこんでくるー」と分かってて待ち受けるのも非常に怖いわけですけれども。でもあの「突撃タッチ」は不測の事態ですから。突然あんな破廉恥なことされたら恐怖でパニック状態になります。

だから前の記事では「適法なのか」と逮捕にいたる手続きについて焦点を当てたのですが、まったくスルーされて無意味な屋上屋を架されてしまいました。逆に動画の全尺がないことを唯一の根拠として「警告はあったかもしれない」にしがみつくなんて、この期に及んで往生際が悪うございます。あの逮捕にいたるキャップデカ=痴漢デカのノッコミは、現場の取締官として必要な手続きを一切踏んでいないことはごまかしようがありません。「今まさに犯罪が行われている」から常人逮捕が成立する状況とも、まったく異なります。そばに制服警官がいて一緒に歩いているのですから。

不埒なダキツキ魔に出くわしてパニクる。その動顛をとらえて他の私服と制服警官がつっこんできて検束、そして逮捕。どう考えたって警官の特別公務員職権濫用です。先の記事で刑法にポインタあてておいたのはそのため。

だから「公務執行妨害」も虚妄のいいがかりだというのです。痴漢行為あるいは暴行をはたらいたうえで逮捕していくという職権濫用に対して、ツアー参加者が「あぁっ、友だちが得体の知れないオジサンに抱きつかれてる!」とびっくり仰天して駆け寄りつつ何とかしようとするのは、友人としての厚情がただ発露しただけともいえます。実際は抗議するのでせいいっぱいだったようですが、いずれにしても警察官の「公務」が違法なので、抗議は正当防衛なのです。

麻生で逮捕:「転び公妨」というより「当たり屋公安のだまし討ち逮捕」について

2008
11-03
ここんとこリアリティツアーの件ばかりになっていますが。



さて、ほんとうに人は十人十色、同じ動画を見ても主催者側の言い分は成立しないとする向きもある。「麻生邸見学ツアー、無届デモで逮捕」についての考察(詩人ミスラの、FF11放浪日記 かも試練)というウェッブログ記事は、
  • 一人目の逮捕者は「看板」(引用者註:プラカード)をもって大きな声を出し、公安条例違反で逮捕された
  • 条例違反での逮捕を妨害しようとした残り二人が公務執行妨害で逮捕された
  • 「公妨だ!」と叫んでいる人物は、一人目の逮捕者に対していっているのではない
との論理展開のもとに、以下のように結論づけている。
一人目に対し「公務執行妨害で逮捕するとは不当」「転び公妨だ」という主張は成立しないだろう。
また主催者側が都合よく動画を編集している可能性も想定して、「動画が始まる前に、再三注意を受けている可能性だってある」とする。まあ、記録動画の全尺を見ないと判断できないという気持ちは分からんでもない。しかしそもそも主催者側が逮捕を受けて結成した救援会の声明では、「一人目」が公妨で逮捕されたとは一言も言っておらず、「3名の逮捕理由は公安条例(注)違反や公務執行妨害となっています」と報告している(麻生でてこい!!リアリティツアー救援会 不当逮捕弾劾声明)。

くわえて、主催者側が公開している動画だけを見ても、少なくとも制服警官(警備課)が集団歩行中に警告を出していたとは思えない状況が描出されている。「10/26 渋谷、逮捕前に打ち合わせするデカ」の動画では、制服警官の「信号守れ信号~」(0:39あたり)という注意の後に、ツアー参加者が制服といっしょに信号待ちしている様子が記録されている。なお、このとき、進行方向の逆側にいた私服警官(公安警察官)は歩道からはみ出て車道上にたまっている(同0:46あたり)。うーむ私服には道交法は適用されないのか。

リアリティツアー、赤信号で一旦停止 信号待ち
車道にはみでたままの公安警察官たち 我が物顔に車道にふくらむ私服

この信号待ちの時点で、逮捕「一人目」のプラカードを掲げている人は、そのカード掲示によって警告を受けたわけではない。また青信号に変わって歩き出した直後に、そのプラカードの人は麻生邸に向かう旨をアピールしているものの、肉声であったため、そこでも制服警官の警告・制止を受けていない(ツアー主催者は制服の要請通り、拡声器使用を自粛し、横断幕も広げず、巨大風船の浮遊高度も下げている)。一部マスコミでは「再三の警告」があったかのように報道したが、どう見てもそのような状況は存在しない。信号待ちとなる以前の時間帯では、プラカードの人はカードを携行しているだけでアピールしていないことも動画には記録されている。そもそも「再三の警告」を受けていれば、わざわざ逮捕を招くような行為を続けるメリットは主催者にはなく、警告にしたがう対応をとっていただろう。事実、弾圧の直後、それ以上の危険を回避するため主催者はツアーを中止している。

しかし実際には、私服警官による介入・逮捕指揮が青信号となって歩き出した直後に引き起こされているのだ。私服が意図的に狙い撃ちにしたとしか解釈しようがない。「10/26 麻生邸宅見学に向かおうとしたら逮捕」の動画を見る限りでは、「一人目」(プラカードの人)が逮捕されるときには私服が「よし!」「やるぞ!」(いったい何をやるの……)と号令を繰り返すばかりで具体的な警告を事前に行わず、どのような被疑事実によって身柄を拘束するのかも一切告示していない。つまり、プラカードの人が「公安条例違反」の「無届け」現行状態を導出していたとするなら、警察は何がどう公安条例のいう行動にあたるのかを明らかにして適法状態に戻るよう働きかけるべきだが、そうした手続きは一切取られていない。

逮捕時に「公妨だ!」と繰り返していた「ゆでだこデカ」(by救援会)と、「警告を誰かに、あれ……させいなとですね……」(動画「10/26 渋谷、逮捕前に打ち合わせするデカ」の0:18あたり)と逮捕前に相談していたベージュ色のキャップをかぶった私服警官に注目すると、むしろ結局は警告も何もせずにとりあえず逮捕してしまえと私服が動いたことが分かる。「警告させないと」と発言していたのはどこへやら、結局「キャップデカ」は警告抜きで「行っちゃうね」と「ゆでだこデカ」に耳打ち(同1:00あたり)した直後、プラカードの人の身体をつかまえにスッと“静かな突入”をしている(動画「10/26 麻生邸宅見学に向かおうとしたら逮捕」の0:20あたり)。混乱を引き出して弾圧するための鉄砲玉の役割だ。

逮捕を相談する警察官 キャップデカ&ゆでだこデカ
キャップデカ しかけるキャップデカ

「公安条例違反(無届け)だ」の一言も、いったいなにが条例違反に相当するのかもいわない。これが適法な逮捕手続きといえるのか。そもそもツアーは、都の公安条例が規定する「道路その他公共の場所で集会若しくは集団行進を行おうとするとき、又は場所のいかんを問わず集団示威運動を行おうとするとき」(第一条)の対象に相当するのか。これが実は相当しないのである。

確かにツアー参加者は警察発表で40人、主催者発表で50人となっていて、集団ではある。しかし行動参加者は渋谷署警備課との打ち合わせどおり、車道ではなく歩道上をおとなしく歩行していたのだから、公安条例の第一条の規定に相当しない。また歩道全部を占拠していないので道交法違反でもない。制服の渋谷署警備課が集団移動そのものを制止していないことからして、彼らがツアーを「集会」「集団行進」「集団示威運動」にあたらないと解釈していたとことは明白だ。

動画「渋谷署警察官との事前打ち合わせ@ハチ公前」によれば、ツアーに出る前の主催者と警備課の警察官のやりとりは以下の通りである。(リ:リアリティツアーの人/警:警視庁渋谷警察署・警備課課長)
リ「麻生さん家に行こうというね…」
警「それだけであれば別に」
リ「それならいいでしょ」
警(うなずいて)「ただ大きな声で騒いだり、いつものように音をガンガンガンガン…まぁまぁ持ってきていないんだろうけども」(と周囲を指さす)
リ「あぁ、サウンドデモみたいにね」
警「うんうん、そういうことだね」
リ「サウンドシステムは今回ない」
警「だから行くっていったら、今日は、デモ届けも出していないから、車道は行けないから」
リ「いや車道なんか行かないですよ、危ないもんね」
警「だから歩道だよな。歩道で行くぶんにはいいです」
リ「うん」
(以後、麻生邸付近での「5~6人」規制の話が続く)
このやりとりを見れば、渋谷署の警備課長はこの「歩道」について、都公安条例がいう「集会若しくは集団行進」への規制の前提となる「道路」と解釈していないことが分かる。「集団行進」あるいは「集団示威運動」などは「車道」で行われるもの、との通念が頭にあるのだろう。声や音に関しても、通常のデモや「サウンドデモ」クラスの大きさを規制対象として想定していることがやりとりから判断できる。つまり「公安条例違反」は私服のフレームアップ(でっち上げ)で、リアリティツアーは公安条例が規制対象として規定する「集会」「集団行進」「集団示威運動」などを構成していなかったのである。これが「ただ歩いていた」主張の所以たるところだ。

東京では実際のところ、歩道上の集団移動やある種の行動は、公安条例に依拠した警察の取締りの対象とはなっていない。国会前の情宣活動や座り込みといった歩道上の行動を知っている人もいるだろう。音響機器を装備した車両を使用する以外のそれらの行動は、公安条例ばかりか道交法の規制も受けないという現実があるのだ(もちろん歩道の通行の妨げにならないように監視はされている)。当然のことではあるが、無届けで街宣車両を車道路肩につけて使用するなり、歩道を全部ふさいでしまうなりの状況が現出されない限りは、それは「集会」「集団行進」「集団示威運動」、あるいは「道交法違反」とはみなされないのである。条例の「合憲解釈」のために警察の側もそうしてきた慣行があるわけだ。

公安条例は、集会や表現の自由という憲法的価値を阻害する内容をもっているため、憲法がいう自由をみだりに損なわないように限定的に解釈(「合憲限定解釈」)すべきであることは言を俟たない。しかし表現の自由の制限は萎縮の効果が高いことが法学上も危惧され、また公安条例の条文が実際に曖昧なため(たとえば「集会」「集団行進」「集団示威運動」の違いとは何か、条例制定時と異なってモータリゼイションが進展したこんにちにおける「道路」とは何か etc.)、「明確性原則」により条例じたいが無効(=違憲)かもしれない可能性だって検討されるところだ。地方裁レベルで条例に対する違憲判断が各地で出されてきたことをふまえれば、これはいまだに解決されていない問題と考えるべきなのである。

さて、「キャップデカ」が警告もなくプラカードの人の身体に手をかけた直後に、「ゆでだこデカ」ら他の公安警察官が「よし!」「やるぞ!」と声をあげ、ツアー参加者や制服警官らがあわてふためいて動いたことをいいことに、「公妨だぞ!」との威嚇を繰り返しいてる。そしてツアー参加者を守ろうと動いたようにも見える人々を、「公務執行妨害の現行犯」として逮捕していったというわけだ。これは明らかに警官の「職権濫用」(刑法第194条)だ。警察の違法行為に対する防衛行為であれば、それは正当防衛となるからである。それをコーボーだゾ!って喚き散らしてもねえ。マスコミはこの件についても「警官を暴行した」などと報道したが、独自の映像ソースは持たずに警察発表をたれ流しただけというていたらく。もちろん主催側の動画で確認できるのは警官の非道ばかりである。ツアー参加者をスッ転がしたりしてたの、警察じゃん。
このとき僕もどつかれ、道路に突き飛ばされ、カメラを壊されそうになりました。
夜、寝る前に裸になって気がつきましたが、このときの騒動で僕も右肘から軽く出血してました。
繰り返すが、「合憲解釈」上の公安条例に準じても、リアリティツアーは規制対象となる「集会」「集団行進」「集団示威運動」ではない。そもそも何が規制対象となるべき行動なのか判然としない条文を掲げているのが、これら治安維持法としての公安条例である(条例の性格については「公安条例は治安弾圧法令」を参照されたい)。だからこそツアー移動前の打ち合わせが主催者と警備課との間で行われたわけだろう。警備課の制服警官が、「大きな声で騒いだり」「いつものように音をガンガンガンガン(と出したり)」というような範囲の「デモ」でなければ歩道を歩くことを認めておいて、後になって私服が当たり屋的に目についた人物をいきなり検束し、現場に混乱が起きると「公妨だ!」と波状的に介入して、制服を指図して複数の人間を逮捕していく。一言でいえば、だまし討ちでしょ。「転び公妨」というか「当たり公妨」だ。「公妨」が「一人目」(プラカードの人)にそぐわないとするなら、「当たり屋公安のだまし討ち逮捕」でもよい。いずれにしても野蛮な違法逮捕だ。

あと、最初に俎上にあげた引用元のログでは、ツアー主催者の構成団体であるフリーター労組が麻生首相に事前に団交申入れを行っていて、「ただ歩くだけ」というのとは違うじゃないかと苦言を呈している。いや~麻生邸へと歩くところまでは「ただ歩くだけ」だよね。政治的あるいは社会的な主張をもった寄り歩きを特別に取り締らなければいけないというのは、自己の生がもつ政治性への無自覚さを表白するだけのことだ。「ノンポリ」もまた一つの政治性の選択であるということを人は知らねばならない。さて、麻生邸近くに到着してその後どうするつもりだったかは知らんけど、逮捕の事態は、公安条例のいう行進ではないという意味で「ただ歩いている途中」にしかけられたもの。ログ主氏は「ただ歩くだけ」なら警察も止めようがないとして、「ただ歩くだけ」とは異なる「麻生氏に団体交渉を申し入れるつもりだった」のだから主催者は逮捕の可能性を折り込んだ演出をしたのではないか、とにおわせる書き方をしている。でもね、同労組は団交申入れそのものは事前にすませているし、仮にそれが労組法に保護される団交要求に相当するなら民事・刑事にわたる免責原理が貫徹するはずなのだ(団交当事者がいないのに建造物に突入したりしなければ。このあたりは労組法と判例法理を読み込まないと理解できないかも)。

それからログ主氏は、麻生首相は当日秋葉原に行ってて不在だったため本当に交渉できるわけもなく、どう転んでも運動に(おいしく?)利用できたといいたいようだ。うーん、フリーター労組による事前の団交申入れはちょっと日付が分からないけど、報告記事(「首相は団交に応じろ」)が10月22日付で公開されているから、22日かその少し前でしょ。まあ一週間は時間を見たってこと。おそらく麻生在宅だった場合は、「そろそろ団交に応じるか応じないかの返事くれないか」とF労は要求するつもりだったんじゃないかと。使用者との団体交渉って、申入れから二週間くらいは時間みて「応じるかどうか返事してね」って手続きを進めていくのが常套だから、いきなり交渉に入っていくとは限らない。でもま、麻生首相が在宅で団交に応じていたなら、そこで労組が交渉したって別にいいじゃん。いったいそれで誰が不都合なのかよく分からない。

それはともかく、逮捕されるって事態は小さく貧しい行動主催者にしてみればかなりきついことで、囚われた人たちも大変だけど、外で事後対応に奔走する側も本当に大変。だから「どう転んでも」、つまり被逮捕も運動キャンペーンの計算のうちだった、と解釈するのは違うなと思う。被逮捕の反撃としてアンチ麻生キャンペーンが結果的にできたとしても、それ以上に失うものは大きい。まず第一に被逮捕者の生活と人権。周囲との関係と信頼。主催関係者の体力・精神力。自分の労働を調整して救援に奔走してる人たちはかなり疲弊してるはず。潤沢な会計基盤があって有給専従もおけるような運動体ならまだしも、フリーター労組はボランティアの寄り集まり。労組外のツアー主催のフェスタ実の人たちだって同様、お金持ちで暇なんですて人ばかりとはとうてい考えられない。つかまった三人も「フリーター」。ツアーが無事に終了していたら、それはまあ参加者は「やりました!」って喧伝するだろうけど、それが何、とも思う。

まあ、なんというか、主催側がいっていることもきちんと読んでから判断してもいいんじゃないの。

p.s.
ここまで書いてきて、検索してたら次のリソースに行き当たった。Matimulogというウェッブログの記事「police:麻生太郎に逆らうと、こうやって逮捕される」。記事の動画紹介にも賛同するが、書かれているコメントに注目。「旧司法試験の受験生」というシュウ氏の整理が分かりやすい。私がだらだらと劣化した内容を書く必要もなかった。「社会的に相当であれば無届けデモだってありうる」という趣旨の解説も興味深い。

住所不定、罪証隠滅の怖れ、逃亡の怖れだと?

2008
11-02
リアリティツアー弾圧被害者に対する勾留認容への準抗告が却下されたもよう(救援会ブログ)。

この一件だけでも、日本の三権分立の実質的崩壊が分かるというもの。

起訴前段階での保釈制度も確立していないし、公訴手続きもなく最長23日間も代用監獄(警察署の留置施設)に拘束できるというのは、明らかに冤罪の温床。

野蛮な国、日本。オリエンタリズムからいうんじゃない。単なる事実だから。

準抗告の却下理由もまさに憤飯もの。

・住所不定
・罪証隠滅の怖れ
・逃亡の怖れ

ハァ?

被疑者が私物をもって逮捕されていれば(動画を見ると荷物携行してるよね……)、押収品あるいは預置品の記録が作成されているはず。だから被疑者が当然の防御権の行使として黙秘していたとしても身許が割れている可能性が高いわけで、勾留にかかわった裁判官が住所を特定できないというなら、警察・検察の意図的な情報隠しによるものである可能性がかなり高い。

罪証隠滅もまったく意味不明。現行犯逮捕の場合、犯罪の証拠なるものは現場にしかない。隠滅って何だよ。後から現行犯の証拠を隠せるっていうのかよ、って語義矛盾だよ。それともタイムマシンがどこかにあるのか。それとも釈放したら被疑者が警察署・地検にしのびこんで捜査資料をパクるとでもいいたいのか。裁判官の思考回路はどうなってんだ。

現行犯逮捕だから採証はもうとっくに済んでいて、つまり捜査資料は要するに現場収集に尽きているわけで、本当は勾留する根拠なんか最初からない。起訴できるというのならすぐにでもやればいいだけの話。そうせずに長期間留め置くというのは、公安警察・検事の「被疑者踏みしだき」体質のあらわれ以外の何ものでもない。これって実は公安事件だけでなく、ほとんどの刑事事件にいえること。黙秘してなくてもとりあえず監禁しとけという。警察・検察の嗜虐趣味は公然の秘密。公安事件としての現行犯逮捕のねらいの特質としては、取調べ中の被疑者への人格攻撃と転向強要、それに被疑者以外の個人情報の収集。

逃亡の怖れというのもおかしい。現に逮捕・監禁され、釈放したって公安警察が余裕で監視下における人間がどこにどう逃亡するというのか。たぶん被疑者がそろって貧乏人ばかりで逃げたくても逃げられないのに対し、警察の公安部門は潤沢な予算をぶんどってるんだから、こんなアホな話はない。

ぶっちゃけると公安事件を担当する検事って思想検事だし、いうまでもなく公安警察とツーカー。そんなのが請求した懲罰的な報復勾留に対して、ほとんどなんも考えないで判子押してる裁判官は己の不明を恥じるべき。採証が終わってんのに勾留させろっつーのは、公安警察・検察のネチネチとまとわりつく加虐的な嫌がらせだ。それに加担する裁判官のドS趣味って何なの? 地裁刑事部の特質なの?

勾留を認容した裁判官 内田哲也
勾留認容への準抗告を却下した裁判官 波床昌則・丸山哲巳・豊島栄子・朝山芳史・高橋正幸・宮下洋美

politika aŭ morta

2008
11-01
あ゛~、風邪ひいてシンドイので先に切り上げてしまった。トップバッターだったのが幸いして体力が持ちました。ヘルプでギグに臨んでくれたNくん、Bくん、どうもありがとう。KRIEGSHÖG & DEATHTRIBE、祝7'EPリリース。レーベル運営者ご苦労様。たぶんみんな朝まで打ち上がるはずなのに先にバックレてすんません。

たいていいつも何かしらあって、「仲間がパクられた」とか「今度行動があります」とか何とかギグでアピールしてるけど、今回もパンク仲間に向かって告知すべき状況にあったなと。リアリティツアー弾圧についてふれました。急なことでもあったのでビラは勝手につくりました。

アピールしたときにやった曲、

nenio estas krima

indiĝena personoj, do kio?
eksterlanda personoj, do kio?

nenio estas krima

diskriminacia personoj, do kio?
malhava personoj, do kio?

nenio estas krima

invalida personoj, do kio?
malsana personoj, do kio?

nenio estas krima

no one is criminal

indigenous persons, so what?
foreign persons, so what?

no one is criminal

discriminated persons, so what?
hove-nots, so what?

no one is criminal

disabled persons, so what?
sick persons, so what?

no one is criminal

誰も犯罪者なんかじゃない

先住民、それがどうした
外国人、それがどうした

誰も犯罪者なんかじゃない

被差別民、それがどうした
持たざる者、それがどうした

誰も犯罪者なんかじゃない

障碍者、それがどうした
病者、それがどうした

誰も犯罪者なんかじゃない


思い起こせば昨年の「反戦と抵抗の祭〈フェスタ〉」ではトラックの荷台の上でやらせてもらったんですよね、おれら。あたりまえだけどハコでやるのと全然違いました。路上でマルキと公安の連中に包囲されながら、デモ隊に向かってというかデモ隊と一緒になってというべきだと思うけど、そーいう状況でやらせてもらうのなんて滅多にない経験で、実に楽しい思いをさせてもらいました。警備公安に脅迫されてるばかりじゃないのです。でもそのぶん他の人が大変なのです。だからとーぜん今回の件だって、去年の恩返しってわけじゃないけどバンドとしてできることはやらなきゃね、と思ってました。

この地では「政治的であること」はどうやら白眼視されるようだけど、地下のパンクスはんなこたいっさいかんけーねーし、勝手にやるだけ。話もしたことのない人の目ばかり気にして無味無臭きめこむカシコさんの世界に用はない。

ではおやすみなさい。はなみず垂れてきた。


:D

noiz

Author:noiz
vivu anarkiisma komunismo!

ちかごろ

けんさく

せんでん

Guilty for Brutal Pigs! Release All Protesters RIGHT NOW!

Free the Belgrade anarchists!

ふせん


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