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私たちは未来からのイメージだ

2008
12-31
私たちは未来からのイメージだ
──Void Network 「叛乱を組織する方法
- Void Newroks のウェブサイト
- 来年も生きぬくぞ
- 生きてやつらにやり返せ!
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奴隷の民主制を粉砕せよ

2008
12-25
無産大衆・無政府的同志が指摘しているように、戦後日本の天皇制は、占領者の統治テクノロジーにくみこまれることによって生きのこる契機をつかんだモノにほかならない。

「新憲法」(日本国憲法)施行以前のGHQ占領期において活用されたポツダム命令は、いわゆる「ポツダム緊急勅令」にもとづく。そして勅令は「旧憲法」(大日本帝國憲法)第八条第一項にそのレジティマシー(正統性)がもとめられる。つまり占領政策とは天皇および天皇制の権威をも利用した統治技術の実験でもありえたのである。とりわけ「新憲法」施行までの過渡的な統治─支配を補填する手段として、勅令のレジティマシーを利用しながら貫徹されたポツダム命令は、占領当初において絶大な威力を発揮した。

戦後の天皇制が「国民の総意」にもとづくというのは、戦後の体制づくりにかかわったものたちのおためごかしにすぎない。それは「新憲法」公布・施行以前から、占領軍の統治技術がゆるす範囲のなかで改変され残存が保証された制度であった。しかもその改変が勅令の活用にうらづけられていたという意味において、戦前─戦後をつらぬく権威の保存を意味した。日本帝国主義下人民にとって、政治的権限を廃されたという戦後天皇の国事行為のなかみをよく知らなくても、さしあたって生きることは可能である。しかしそれら国事行為が国政に直接関与しないものであれ、そこに天皇にまつわる権威のしるしが集約されていることは否定のしようもない。

1948年、松本治一郎(まつもと・じいちろう)は第二回国会の開会式に際して天皇拝謁を拒否した。いわゆる「カニの横ばい事件」である。松本のこの個人的決起まで、「国会議員が天皇に横顔・尻を見せずに横歩きする」=「カニの横ばい」の慣習は国会議員に是とされていた。人のうえに人をいただこうとするおそるべき奴隷の精神の発露は、それまでの国会議員にはむしろ必然であった。裕仁(ひろひと)が勅語として「第一囘国会の開会式に臨み、全国民を代表する諸君と一堂に会することは、わたくしの深く喜びとするところである」と述べていたのも(1)、この必然あればこそのものであろう。「朕=わたくし」の国事行為に「国会の召集」が含められる以上、国会開会にあたって天皇を拝まなければならないという慣習の踏襲は、「召された」議員たち、つまり「国会開会のために集りなさい」という天皇の命令を受諾する人々にとってみればなんらおかしなものではない。「被差別部落解放」というそのよってきたる立場から発せられたであろう松本治一郎の人としての問いかけは、「革新」勢力含め居並ぶ議員たちにしてみれば青天の霹靂(へきれき)であったはずだ。

敗戦と占領によってもたらされた「戦後民主主義」の出発とは、かかる精神的支配と屈従の関係性そのもに手をつけるものではなかったという意味で、〈奴隷の民主制〉の繰り延べでもあったということができよう。なぜ国会が「招集」ではなく「召集」されなければならないのかを考えるとき、人はここに形容しがたい権威とそれへの隷属的精神の存在を認めなければならない。その他の国事行為を受容する精神的構造も同断である。天皇による諸種の「任命」や「認証」がなくとも、国政の遂行は可能なはずだからである。

しかしながら、政治的権限を縮小したという天皇制にまつわる権威主義の貫徹は、代議制という統治の技術に矛盾するものではない。効率性を人質にとった代理代行の正当化は、人民の代表者たるべき議員にいっていの権威をまとわせるものでなければ完成しない。人が人との討議をいとわぬものであれば、そうしてその非効率をのりこえようと努力するものであれば、代議制がもつ欺瞞はすぐにあきらなかものとなる。であればこそ政治的代行主義の権威を補完するために、戦後日本では「伝統的な」支配と屈従の精神性がふたたび利用されたのである。そしてこの利用は、占領軍と日本政府の合作による権威の更新として示顕(じげん)したのであった。

国家とは、それがいかなるかたちであれ、支配する─される関係を構造化するもの以外ではない。明治政変以後に登場した国家主義的な天皇制は、国家に寄生し内在化することによって成立させられたものである。明治以来、「国家革新」がかならず天皇の権威を利用するものであったことはいうまでもない。軍人であろうとその他の高級官僚であろうと、天皇を利用することによって自らの行動綱領を実現してきた歴史を見よ。「昭和」の天皇=裕仁とはこの体制の共犯者にほかならない。USA帝国主義はその新たな共犯者であり、支援者であった。そうして日本人民(=「国民」)の名における天皇の権威の推戴こそが、(USAに)従属的な帝国主義者として「自立」する戦後日本国家の根幹にかかわる公然たる秘密なのであり、「国民」たる〈われ/われわれ〉こそがこの日本的国家主義のいまにいたる共犯者なのである。吐き気がする。

したがって「ヤルタ‐ポツダム体制の打倒」は、天皇制を拒否しその廃絶をめざす被征服者のスローガンでありうる。占領支配の秩序の拒絶は、反米民族派を自称する「新右翼」の専有物ではない。YP体制とその庇護のもとに生かされた戦後版天皇制、かかる制度を「輔弼」(ほひつ)する政治的権威主義、これらすべての解体はついにはまつろわぬ有象無象の政治綱領としてかちとられなければならない。日本帝国主義のあしもとにおいてアナーキーを唱えるものは、天皇制の廃絶をもめざすものでなければならない。そしてそれは国家ではない人の直接行動による以外にないのである。

(1)「第一囘国会開会式における勅語」を見ると、続いて「危機を克服」「民主主義に基く平和国家・文化国家の建設」への「切望」がかたられたことが分かる。「民主主義」とはなにか。「平和国家」「文化国家」とはなにか。少なくともそれらはまず第一に天皇制と共存可能な統治技術の形骸であろう。

【転載】派遣切り対応マニュアル

2008
12-24
不安定な仲間の生活を支える越冬実行委員会のウェッブログより転載:


派遣切り対応マニュアル

派遣切りで仕事や住居を失った場合、失いそうな場合、以下のような対応ができます。全国ユニオンが行った「派遣切りホットライン」の対応マニュアルに独自の説明を加えた対応策をご紹介します。

第1 こう言われたら、こう答えよう&利用できる制度

1. 契約中途解除/契約更新拒絶と退寮勧告に対して

「○月○日で解雇です」「契約終了です」「契約を短縮します」と言われたら
 →「解雇は認めません。働き続けます」と答えよう。

「解雇と同時に寮も退去してください」と言われたら
 →「寮は出ません。ここに住み続けます」と答えよう。(根拠:借地借家法 6ヶ月の猶予)

「家賃は払えるのか」と言われたら
 →「家賃は払います。今まで通り給与から天引きしてください」と答えよう。

「解雇だから給与は払えないよ」と言われたら
 →「解雇は認めません。今まで通り給与を払ってください」と答えよう。


2. 解雇通知・短縮契約に同意のサインをしていたら

 →次のような文面で、サインの無効を主張する。
株式会社○○ 代表取締役○○様

 「解雇予告通知書」(または「雇用契約期間を一方的に短縮する派遣雇用契約書」)へのサインは、文面を読む余裕も与えられず、わけもわからないままにサインさせられたものですので、無効です。○年○月○日付解雇は不当ですので認められません。○年○月○日以降も引き続き働き続けます。
 また、寮を退去するつもりもありません。今後も寮に住み続けます。家賃は、今までどおり給与から天引きしてください。
 以上

 ○○○○年○月○日  氏名     印

3. シフト減による減収

 →従来の労働日・労働時間の維持を要求する。


4. 雇用保険を使う

(1) 雇用保険に未加入の場合
→加入要件(一週間の労働時間が20時間以上。一年以上の雇用見込み)を満たしていたら、遡及加入の手続きをする。失業給付は雇用保険に加入していた期間が12ヶ月以上(解雇などの場合は6ヶ月以上。)

(2) 離職票の発行
→一週間以内の発行を求める。厚生労働省は「一ヶ月待機を画一的に行わないよう指導」
→「事業主都合」で発行を
→住居喪失の場合の失業給付の受給も模索する


5. 生活保護

(1) 労働組合組合員などが生活保護申請に同行する


6. 有給休暇

(1) 解雇日までに有給休暇を取得する
(2) 有給休暇消化後に解雇日を延期すべきと交渉する


7. その他

(1) 期間制限違反があるか確認する


第2 労働組合(ユニオン)を結成して闘おう

1. 派遣切り、退寮勧告と闘うためのユニオン結成

(1) 解雇撤回、雇用継続
(2) 退寮勧の撤回
(3) 派遣契約の開示と契約途中解除の理由説明
(4) 派遣元・派遣先に基づく契約中途解除の際の雇用確保措置
 
フリーター全般労働組合に相談を!
TEL. 03-3373-0180
union(at)freeter-union.org


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今冬、各地の相談窓口などの情報については08-09 各地の越冬・越年行動スケジュール (ubiqueerまとめ)

コーポラティズムから自律的労働者運動へ

2008
12-19
連合が春闘でベアアップを要求するという話題がマスメディアにのせられるにしたがい、待ってましたとばかりに「正規雇用の組織労働者への恨み節」がそこかしこで登場しつつあるようだ。これは経団連にとっても都合のよい「輿論」(よろん)に転化しうるだろう。

もちろん、おおくの人が不況にあえぎ、「非正規雇用」のなかまたちが大量に解雇されつつあるこのタイミングで春闘の話をするとなれば、連合主流派の行き方を見て「所詮、正社員の利益確保のみ」という感想が出てくるのはやむをえないという気もする。しかしだれに頼まれたわけでもない「労働者間のルサンチマン」を代弁する批評がいくらくりかえされても、それはあくまで外在的なものにとどまる。むしろそのような批評はまた批評するものの立場をも糾問することになる。すなわち、「そういうお前はどこにいてなにをやっているのか」という問いである。この問いのまえには、もちろん私もたたされる。

金融資本主義のギマンがもたらした世界的な同時不況のもとで、それぞれの持ち場での苦闘が存在する。そしてそれはいまにはじまったことではない。またたたかいの場はたんに「正規雇用」の組織労働者のものにかぎらない。ひとりでも加入できる地域合同労組のたたかいはもとより、労働組合によらずに個人で使用者(経営者)の不正・不当を追及する人々のたたかいもある。そうした「個別労使紛争」は裁判闘争へと集約されていくが、裁判以前のものとしての日夜のたたかいもとうぜんのようにある。官民とわず稼働貧困者(いわゆる「ワーキングプア」)が大量にうみだされているこんにち、従来の労働組合運動と、そして寄せ場の労働運動・野宿労働者運動や「主婦パート」などの「個的」にして恊働性をもつ闘争(1)などの労組運動主流の枠外にあるたたかいは、たとえ「見えないもの」であってもなおいっそう確実に存在しているのである。

生きぬくための苦闘のなかからは、不可避のものとして「御用組合」批判もでてくるだろう。2005年の連合の会長選挙に際し、全国ユニオン(合同労組の連合体)の候補者は「未組織労働者の組織化」「非典型労働者の組織化」──「非典型」はいまでいう「非正規」にあたる──をおしだした2001年の「ニュー連合」路線を現実のものとするよううったえた。とくに「非正規労働者」に軸をすえた運動と、「均等待遇化」路線のなおいっそうの推進をうったえる主張(2)は、「正規雇用」の立場には耳がいたいものであったはずだが、それでもいっていの共感をもってむかえられた。会長選挙は名だたる大組織であるゼンセン同盟の候補者(303票)の勝利におわったが、ゼンセンにくらべてはるかに小さな組織である全国ユニオンの候補(107票)はおおかたの予想をうわまわって健闘したのである。これは政労使コーポラティズム、つまり総体としての労使協調路線に対する批判票が結集したものともとらえられる事態だっただろう。

このように日本の「組織労働者」の代表的存在である連合のなかにおいてさえ、「非正規雇用」の労働者の自己組織化としての表現である「たたかう合同労組」の潮流が存在し、健闘しているのである。このことはもっと知られてもよい。全国ユニオン系の合同労組に結集する人々、あるいは他潮流の合同労組に結集する人々は、でしゃばるほどには自らを語ることがないように見える。しかし近年の派遣ユニオンの派遣企業に対するたたかい、「名ばかり管理職」問題を追及する東京管理職ユニオンのたたかい、過労死問題などにも必然的にとりくんできた全国一般東部労組のたたかい、NOVA倒産問題などで語学学校教員をささえてきた全国一般なんぶ(東京)ゼネラルユニオン(大阪)のたたかい、「外国人研修生の虐使」問題に立ち向かってきた全統一労組のたたかい、あるいは労働問題を生存問題として直結させようとする「フリーターユニオン」(3)の地をはうようなたたかい、数え上げればきりがないけれども、守勢にたたされながらもみずから立ち上がるなかに新たなみちすじを見出そうとする動きが全国各地で顕在化しつつある。従来組織されてこなかった、自己組織化してこなかった人々のあらたな決起は、労組ナショナルセンター・連合体の別をとわず、さまざまな場において合同労組が続々と結成されていく動きにも表現されている。ともすればわすれられがちな中小零細企業の労働者のためにたたかうという合同労組の歴史はふるく、ひもとけばそれは戦前からのものであることを人は知るだろう。そうしてこの「ひとりでも加入できる」合同労組の「自力自闘」は戦後なんどもの高揚を経験してきたが、分断されたままの労働者の最後の「孤塁」としていままたその姿を劃然(かくぜん=ハッキリ)とあらわしつつあるのである。

「正規雇用」と「非正規雇用」とのあいだに存在する現実の矛盾・亀裂はふかい。しかし労働現場の矛盾に直面してなやみくるしみつつも、しかしあくまで「均等待遇」「同一労働同一賃金」のスローガンのもとに、なおその矛盾をのりこえようとたたかうひとびとがいる。たとえそれが不当な攻撃にたいするせいいっぱいのやり返しにすぎないとしても、私はこうした動きにこそ希望をみる。安全圏からの、あるいはみずからの姿をかくしたままのひとごとのような批評は、批評それじたいとしては大状況を理解しようとするうえで参考になることはあっても、「現場」の苦闘にはほとんど役にたたないだろう。いま・ここにある使用者(経営者)の不当労働行為にたいして、すぐにでもとりくむべきたたかいの準備に合同労組のなかまたちは東奔西走している。ときおりマスメディアにとりあげられるような「絵になる」たたかいは氷山の一角にすぎない。首切りに対決し、賃金未払いをゆるさず、あるいはそもそもアルバイト・パート・派遣・契約などのどんな労働者も労働者なのだと声をあげ、孤立の状況を緩和すべく「団結」の場を確保・拡充しようとする営々たる人々の努力に、合同労組に加入しながら何もしない私は頭をたれる。

いうまでもなく以前にもましてきびしい年の瀬だ。各地の越年のたたかいへ!(4)

(1)たとえば、パート・未組織労働者連絡会は労働基準法を武器に裁判闘争をたたかい、成果をのこしている。その一つの報告として「[労働権の確立をめざし JRAと裁判し勝訴]山口静子」がある。こうした「個的」なたたかいの一つをとってみても、ひとはたたかってはじめて状況をきりひらく端緒をつかむことができるのだということが明確に示されている。

(2)ゼンセン同盟・高木剛候補の対立候補者となった全国コミュニティ・ユニオン連合会の鴨桃代は、「連合改革への私の決意」で次のようにのべている。こんにちやかましくいわれる「逆均等待遇」への視座は、鴨にはこの時点で(あるいはそれ以前から)すでに内在していたといえよう。
連合が結成された1989年当時、パートは連合組合員と同じく約800万人でした。そして現在、連合組合員は700万人弱。それに対してパートは1200万人です。つまり、連合は、いまだに正社員中心の組織を脱することができず、いまの雇用・就労形態の変化に立ち遅れている実態にあります。

連合は、2001年の大会において「ニュー連合」方針を提起し、「未組織労働者の組織化」「非典型労働者の組織化」を強くアピールしてきました。さらに、連合評価委員会も強くそのことを指摘しています。しかし、連合全体としての取り組みはまだまだ不十分だと思っています。

いま求められているのは、連合組合員数を上回る非正規労働者をもっと本気で仲間に加え、「均等待遇」の立法化や「理由のない有期雇用」への規制などに総力をあげて取り組むことです。非正規労働者の声を反映し目線にたった運動を提起する、直面 している問題を一緒にたたかうことです。連合が、もっとも労働組合を必要としている人たちの拠り所になることです。

また、この仕事は正社員でなければならない(できない)ということではなくなってきています。企業によっては、正社員賃金を非正社員賃金に合わせる、「逆均等待遇」を始めているところもあります。均等待遇は正規、非正規問わず、全労働者の課題としての取り組みが求められています。

私は、この間、連合が笹森会長を先頭に推進してきた「非正規雇用労働者の組織化」「均等待遇立法化」をさらに推進していきたいと思います。それが、今回の会長選に立候補した第一の理由です。

(3)「フリーター」を名称にふくむものとしては、フリーター全般労組(Precariat Union、東京)フリーターユニオン福岡、フリーター労組仙台がある。またユニオンぼちぼち(関西非正規等労働組合)なども同種の労組群に数えられよう。

(4)各地の情報・相談窓口については「08-09 各地の越冬・越年行動スケジュール」(ubiqueerまとめ)を参照のこと。

グローバルな経済危機とG20会合に対するアナキスト‐コミュニスト声明

2008
12-18
グローバルな経済危機とG20会合に対するアナキスト‐コミュニスト声明

1. 現在の危機は資本主義経済に定期的にあらわれる危機の典型である。「過剰生産」──投機とそれに続いて起きる崩壊はこのシステムに固有なものである。(アレクサンドル・ベルクマンたちが指摘したように、資本主義エコノミストが過剰生産と呼ぶものは実際には過小消費であり、資本主義は大多数の人々がその要求を満たそうとするのを妨げ、自身の市場を掘り崩すのである。)

2. 資本主義者や政府が準備するどんな危機への対応も資本主義の枠内にとどまる。それは諸人民階級(the popular classes)にとっては何の解決策にもならない。あらゆる危機の場合がそうであるように、金融資本が膨大な金額で救済される間、労働者と貧しいものたちは支払い続けるのである。この状況は継続するもののようであるが、資本主義の枠内でのチェンジは諸人民階級の問題を解決できない。まして解決策なるものはバラック・オバーマのような個々の政治家に期待することもできない。かかる政治家にできることといえば、せいぜい資本主義者に出口を提供し、そしておそらく労働者階級に幾ばくかのパンくずを投げてよこすくらいのものである。

3. 銀行への緊急支援は、国家が誰の利益に奉仕するのかということだけでなく、自由市場への資本主義のコミットなるものの空虚さを示している。歴史に明らかなとおり、資本主義者はかれらの利益に適うときに市場を支持し、必要なときに国家の規制と資金注入を受けいれる。資本主義は国家の支援なしに絶対に存立できないのである。

4. 合衆国、連合王国、その他どこででも、緊急支援は資本への全的支援により、立ち往生した金融機関の国有化というかたちをとった。これは資本主義者が国家所有に何ら原理上の問題を持たないということ、そして国有化は社会主義とは無関係であるということを示している。それは労働者階級を締め上げる一つの方法でもありうる。だから国家ではないわれわれ自身こそが、経済管理を掌握する必要があるのだ。

5. 新自由主義下の資本のグローバル化ゆえに、対応がグローバルなものでなければならないと支配階級は認めている。G20が危機について討議するために11月15日から会合を持つ。これは示唆的である。合衆国、ヨーロッパ、日本の支配者は自分たちだけでは危機に対応できず、互いの力だけでなく他の力、とりわけ(工業生産のトップに躍り出て、世界第3位の経済へと向いつつある)中国を必要とすることを自覚している。インド、ブラジル、他の「新興国」の経済が議席につく。これは、もはやG8のみが世界経済の意志決定者ではないという、ここ数年の議論をもとにした表徴を読み取ったものであるかもしれない。それはグローバルな経済システム運営の変動を予兆するものとなりそうである。

6. われわれは新しい資本主義者権力への包含になんの希望も見出さない。中国の支配者たちは社会主義者であると自称するであろうし、たとえばブラジルのルラや南アフリカのモトランテのような他の人々が、折りにふれ自らを貧者のチャンピオンとして表象するであろう。しかし実際にはその全員が資本主義の防衛者であり、かれら自身の国における人々を搾取し抑圧する者であり、他国の人々にとってのますます増加する帝国主義者ないし半帝国主義者である。

7. 危機がグローバルな諸人民階級の完敗以外の何か、貧困、搾取、戦争に帰着させられるのなら、諸人民階級は動かなければならない。われわれは、資本主義者ではなくわれわれのための支援措置こそ要求しなければならない。われわれアナキスト‐コミュニストは、サププライム・モーゲイジで家を得た人々──支援されるべき、自分の家を維持すべき人々のために闘わなければならない。われわれは、よりましな賃金、より短い労働時間、居住、諸サービス、医療サービス、教育と福祉、環境保護のための闘いに参加・支援し続ける。われわれは帝国主義戦争とわれわれの階級とその闘争への弾圧を終わらせるために闘う。

8. われわれはG20会合への対応としてこれらの要求を突きつけ、将来にわたってそうし続ける。これらの要求を通じ、また要求を実現させるための直接行動を通じ、資本主義と国家、そしてそれらがつくりだした危機に終止符を打つことが可能な、諸人民階級のグローバルな運動の構築に向け尽力する。

Alternative Libertaire (France)
Federazione dei Comunisti Anarchici (Italy)
Melbourne Anarchist Communist Group (Australia)
Zabalaza Anarchist Communist Front (South Africa)
Federação Anarquista do Rio de Janeiro (Brazil)
Common Cause (Ontario, Canada)
Unión Socialista Libertaria (Peru)
Union Communiste Libertaire (Quebec, Canada)
Liberty & Solidarity (UK)
Asociación Obrera de Canarias/Ēššer Ămăhlan n Təkanaren (Africa)
Anarchistische Föderation Berlin (Germany)

anarkismo.net 掲載・英語版


[訳註]

[グローバルな経済危機とG20会合に対するアナキスト‐コミュニスト声明]の続きを読む

おれたちゃ廃墟を怖れねえ──ドゥルーティ

2008
12-17
“おれたちゃ廃墟を怖れねえ”

ブエナベントゥーラ・ドゥルーティ インタヴュー

『トロント・スター』紙のピエール・ヴァン・パーセンによる取材
1936年9月、アラゴンにて


「おれらにしたらさ」、ドゥルーティはいう。
「ファシストどもを完膚なきまでぶっつぶすことが重要なの。おお、政府のかわりにな。」

「死ぬまでファシズムと戦う政府なんか、世界中のどこにもねえよ。ブルジョワジーは手にしてた権力がぐらつきゃ、その権力をなんとか保つのにファシズムに頼るってわけだ。スペインのリベラルな政府とやらはずっと、ファシスト部隊を力のないものにしておきたかったんだ。妥協したり時間稼ぎしたりするかわりにだよ。それが今じゃ、その反乱軍の方にホイホイついていこうって連中が政府のなかにいやがるんだから。」

ここでドゥルーティは笑った。
「こういってもあんたには分らないだろうな。労働者の運動をつぶすために、現在の政府はいまもこの反乱軍を必要としているかもしれねえんだ。」

「おれたちに必要なもんは分かってる。スターリンのせいで中国とドイツの労働者がファシストの蛮族どもの犠牲になってるが、それも自分たちの平和と平穏のためにって、そんなソ連が世界のどこかあってもおれらにゃまるで意味がねえ。おれたちは、たぶんこれから起きるヨーロッパの戦争の前に、スペインのいま、ここで、革命を欲してるんだ。おれたちの革命のせいで、ヒットラーとムッソリーニはロシア赤軍全軍よりおれらのことをおそれてやがる。おれたちはドイツとイタリアの労働者階級に、ファシストをどう扱えばいいかって一例を示してるんだ。」

「世界中のどんな政府にも、リバタリアン革命への援助なんか期待できねえな。ここ最近の状況からしたら、おれたちのものってことになってる政府だってまったくあてにできたもんじゃねえ。」

「しかし」とパーセンが口をはさんだ。
「きみは瓦礫の山のうえにすわることになるよ」

ドゥルーティは答えた。
「おれたちはいつだって貧民街や屋根裏部屋でくらしてきたんだ。これからもどうやっていけばいいかぐらい分かってるつもりだ。だからこのことは忘れてほしくないね。おれたちゃ建設もできるんだ。スペインのここにある広場や街、それにアメリカやほかのどんなところでだって、こういうものはおれら労働者がつくってきたんだろ。おれたち労働者はこういうのをとっぱらって別のもんを建設することだってできる。もっといいものをな! おれたちゃ廃墟をぜーんぜん怖れねえ。おれらはこの大地を継承するんだ、間違いねえ。ブルジョアジーが歴史の舞台から退場する前に、連中の世界をぐちゃぐちゃにしていきてえんだったらやりゃいいんだよ。おれらはおれらのなかに新しい世界を育ててるんだし、その世界はこの瞬間にも成長してんだからさ。」


[訳註]

[おれたちゃ廃墟を怖れねえ──ドゥルーティ]の続きを読む

(ノー)ボーダー・キャンプについてのメモ

2008
12-17
洞爺湖サミット反対運動に“キャンプ”が導入されたことは周知のとおりだが、同時に流布されたらしい「大規模キャンプはジェノヴァ以後、エヴィアン・サミットから」とする説明は精確ではない。自治体行政との「協働」が前提とされる「大規模なキャンプ」史の説明としてはそのとおりなのかもしれない。しかし、「オルター・グローバリゼイション」もしくは「反グローバリゼイション」の集団キャンプはすでに90年代末のヨーロッパにあらわれているのである。その名を「ボーダーキャンプ」あるいは「ノーボーダー・キャンプ」という。「オルタな世界」を「いま・ここ」でつくろうとする試みも、当然これらのキャンプで提起され実践されてきたものであり、そうした努力の歴史を「ジェノヴァ以後」までおくらせることはできない。

サミット・ホッパーの一時的なスクウォットが混乱を誘発すると規定し、そうではないベースとして追求される「大規模なキャンプ」が、「治安管理」上は自治体行政との「恊働」を伴わざるをえないのだという一面の強調は、その自治体権力のカリコミに苦しむ「滞在許可証なきもの」(サン・パピエ、シン・パペレス)、ひいてはあらゆる「持たざるもの」の存在を「見えるもの」にしようとするたたかいの意味を後景化しかねない。「不法」のスティグマは対決と連帯なしには投げ返すことはできない。この点からもボーダーをつきぬけようとするキャンプについて補足しておきたい。もちろんだからといって、洞爺湖サミットでの諸キャンプが自律性を確保し、そしてそのためにかなりの努力をはらったということを否定するつもりはない。

2001年の夏、ヨーロッパの社会運動はあらためて「われわれは生きてここにある」ということをしめした。ジェノヴァ・サミットだけではない。ヨーロッパ各地で開催されたEUサミット、WEFサミット、WB会合のすべてが反対闘争に直面した。闘争は、人々のさまざまな被抑圧の状況が〈国家=資本の連合〉によって正当化されていくことへの抗議の意思表示であった。EU統合化の過程でおおくの人間が「非正規」「不法」なものとされていくなかで、ヨーロッパにおける「オルタ・グローバリゼーション」の運動は、このときもまた明確に〈だれ‐も‐不法‐ではない〉(no one is illegal)とうちだした。

この宣告は何年にもわたってくりかえされてきた社会連帯のスローガンである。そしてそのスローガンを身をもって体現したのが、新自由主義者たちのサミットにキッパリと「ノー」をつきつける人々の移動と占拠だったのである。サミットに反対し、おいかける人々のむれの一つとして移動キャンプ=ノーボーダー・キャラバン(パブリックシアター・キャラバン)があり、それぞれが行動と議論の起点となった各地のボーダー・キャンプがあった。「2001年ヨーロッパの夏」の一連の闘争は、サミット・ホッピング(サミットのおいまわし)を戦術の一つとしていた。そしてキャラバンはジェノヴァで弾圧された。

「ノーボーダー」を訴求するボーダーキャンプは、移住労働者との連帯を追求するうごきとともに1998年にあらわれた。集団野営の構想はより以前に存在しただろうし、またその先駆となるものもどこかにあっただろう。社会運動はたえざる共有のもとにあるからだ。ともあれ、それ以後、ボーダーキャンプは幾度となくあらわれることになる。ジェノヴァ・サミット闘争では、カラビニエーリ(国家憲兵=準軍組織)の発砲によってひとりの犠牲者を出してしまったセンセーショナルな事態に目をうばわれがちだが、このジェノヴァでもボーダーキャンプが設営されている。(「ジェノヴァ以前」のボーダー・キャンプについては、noborder network がアーカイヴしているキャンプサイトをみよ)

それにしても、社会運動はつねに他者によってためされる。「オルター・グローバリゼイション」運動が「帝国主義本国」の〈外部=内部〉でまきおこった闘争──たとえばチアパスでのサパティスタの蜂起──によって、はじめて明確に自らを「だれもが」という主体としてかたちづくったように、その「だれもが」につづけて「不法ではない」とさけぶ生存の提起もまた、移住労働者の抵抗史ぬきにはとらえることはできない。(ノー)ボーダー・キャンプを支えてきたヨーロッパの反レイシズム運動の連絡体である noborder network は、EUの歴史とともに「外からきたものたち」=「他者」との直面によって形成されたものでなければならない。そうでなければ “no border, no nation, no prison” などといえるわけがないのである。

なお、(ノー)ボーダー・キャンプはいぜんとしてあちこちで生きつづける。いまやカナダ、USA、メヒコ、トルコなどにも拡散している。国境あるところに(ノー)ボーダー・キャンプがありうるというべきだろうか。

サミット警備やりましたってか……警察ヒッシすぎ

2008
12-15
警察庁というか、警備公安警察、ひっしすぎです。以下、今年のサミット警備についての警察白書の記述から。
警察は、本警備期間中、テロ、暴動等を封圧し、国内外要人の身辺の安全と行事の円滑な遂行を確保して任務を完遂した。

(2008年版警察白書 第4章 公安の維持と災害対策)
http://www.npa.go.jp/hakusyo/h20/honbun/pdf/20p20400.pdf
じぶんでじぶんをほめる式の勝利宣言。しかしこれは「敗者」なき勝利宣言であって、見ている方はこっぱずかしいかぎりです。だって「テロ、暴動」はどこにもなかったんですから。それなのにこのかきっぷり、ようするに警察こそが「テロ、暴動」を待望してたんじゃないのと勘ぐりたくなります。なぜって、もちろん予算確保のためですよ。とくに警備公安警察って昔にくらべたらひじょーにひまですから、ネタさがしにやっきになっているわけです。

この警察白書・第4章には、「国内外の反グローバリズムを掲げる団体が、サミット開催の前段から、札幌市内において集会、デモ等の抗議行動に取り組み、また、サミット開催期間中には、会場周辺等において抗議行動に取り組んだ」とありますが、「集会、デモ」はもちろん「テロ、暴動」たりえません。「等」として含みをもたせていますが、「暴動、テロ」はないったら、ない。「会場周辺の抗議行動」も、じつは会場近くではありません。会場のウィンザーホテルに通じる一本道はしたのほうで警察がとおせんぼしてたんですから、「抗議行動」がホテルをはるかにのぞむ地点でのものだったのも、当然です(あと例外的に警察がきても逃げ場がないマヌケで脫力的なのがすばらしい、しかしそれだけの「湖上スワンデモ」とかありましたが、おおさわぎするほどのことじゃない)。というわけで、「テロ、暴動」をでっちあげようもないため、大動員の根拠についてまともなことがかけません。関係ないことをひっしでかきあつめて、しかしでっちあげもできないまま、作文。

「要人の警備」「行事の防衛」に警察の巨大な活動が必要だというなら、いったいどんな「テロ、暴動」勢力があって、その結集の「おそれ」があったのか、具体的にあきらかにすべきところです。しかし白書にはそんな記述はいっさいありません。具体性のないみつもりは「民間」ではとおらないもんですが、そこはほら、警察国家のこけんにかかわることですので、「手をつけてはいけない聖域」ってことなんでしょう。警察って不祥事くりかえしても肥大の一途をたどるばかりですもんね。諸政権がいう「聖域なき構造改革」なんてウソです。

また予防的な活動をことあげしながら「封圧しました!」といってみたところで、「警備」さわぎがけっきょくマッチポンプだったことはごまかしようがありません。ようは「サミット警備やりました!」の絶叫は、予算確保のためのネタづくりでしかない。大山鳴動させてねずみの一匹も出てこなかったのに「任務を完遂」とは、なんとまあしらじらしくずうずうしい国営ドロボーなんでしょう。税金かえせ。

ギリシャ「暴動」ざっぽう・ざっかん

2008
12-11
回虫 “毎日が夏休み最終日” kamarado が精力的につたえていますが、ギリシャでの蜂起はまだまだつづきそうですね。一件フォロー。9日?オランダ・ハーグでも連帯行動写真)。在オランダ・ギリシャ人ふくむ200人。

ちょっとおもうのですが、「不況」だから「暴動」になったぁという規定のしかた、これってブルマスに顕著ですよね? ニッポンのマスメディアはあきらかに危機煽りをやってる。ことはそんな単純なわけないのに、アナキストが暴れてます、日本も不況です云々、だからなに? ていう。予防拘禁的すりこみで、不安をあおってかりこみたいのかしら。でも不況という状況だけで「暴動」がおきるわけじゃないですからね。「暴動」に工作者が不在だとはいわないけれど、特定のイストの存在やプロパガンダだけで人は動くものではありません。まあ、複合的におきるもんじゃないのと愚にもつかないことしかいえないのですが。

もちろんギリシャでの状況をくわしくはしらないので、いったいどういう経緯で行動がつづき、そして警察による虐殺の事態にまでいたったのかはっきりしたことはいえません。でもそもそもギリシャでの直接行動派のデモ→「暴動」ってなりゆきはそれなりに有名で、いまさら日本のマスメディアがひっしこいて報道するところに作為を感じてしまうのです。なんでふだんから報道しないの? メーデーだってドンパチやってたじゃん、ていう。

偏見まるだしでいえば、ギリシャにおける一部の運動はかなりハードコアです。一部のはずなのにいっぱいいるよーと、おりにふれ激しい実力闘争がくりかえされる状況は、トルコとならんでヨーロッパじゃよく知られています。しかもアナだけじゃなくてボルもそうとうごっつい。

このかんの「暴動」状況いぜんにも、ごく最近では11月の獄中集団ハンストなどがめだっていましたね。運動がはげしいぶん、獄中者もおおい。もちろん直接行動派の運動はこれだけではなく、ごたぶんにもれず、スクウォット(katalipsi)をめぐるナチや警察との攻防とかいろいろあるんですよね……。だからなに?ってハナシですけど。

警察の暴走をしり、「情報の自由」についてかんがえる

2008
12-10
「反戦と抵抗の祭〈フェスタ〉」の参加者が警察に連行されるという暴挙。フェスタ・ブログの12月6日付の記事のコメントらんに、自宅近くにパトカーがはりこんでいて警察署につれていかれた、との経験をしらせるかきこみがあります。土曜日というのはおそらく、フェスタ一週間後の12月6日にことだとおもいます。
デモに参加させてもらった者です。
土曜日、8:30に家に帰ってくると、警官が待っていて、パトカーで渋谷警察署に連れていかれ、デモの参加した理由などを聞かれました。
三時間くらい事情聴取を受け、昼には帰されましたが、他の参加者も呼んでいるようです。
どうして、私の家とか分かったのでしょうか?
私はユニオンなどの団体には一切入っておりません。
もし、同様に警察に呼ばれた人がいたら教えてください。
これは任意といいつつ実際は強制しておこなわれているはずです。やましいことがいっさいなくても、警察官にかこまれて(しかもパトカーまできている)おどされれば、ひとりではなかなか抵抗しづらいものだからです。警察がのさばっている社会のもとでは、任意同行(にんいどうこう)がかぎりなく強制捜査になってしまう現実があります。まったくゆるしがたいはなしですが、今回の暴挙も強制捜査権・逮捕権をちらつかせて警察(公安警察)がよくやるきたない活動のひとつであるわけです。もちろん任意をよそおう強制には、法的根拠はいっさいありません。

警察(警視庁)がしかけたリアリティーツアー弾圧が議会政治家をまきこんださわぎとなり、かつてのおやぶん(亀井議員)におこられ、あるいは国会質問に幹部がよびつけられるなどの事態におちいったので、なんとか報復してやろうとあがいた結果なのでしょう(1)。ちょくせつ参加者を脅迫さえしておけば、反戦運動や生存運動への参加もへっていくだろう式の、とてもいやらしいやり口。かげでコソコソしかけるというヤクザ顔負けの外道ぶり。しかも制度的権力をかさにきているということにかけては、ヤクザとくらべるのもヤクザに失礼なくらいです。

最低最悪の外道=警察(警視庁)はわるいこともだまってやればいいと思っているのでしょう。ところが、はばひろい情報伝達を可能にする環境がこれをゆるしません。たとえマスメディアがサボっていても、いっていの相互性と大衆性をもつ環境であるザ・インターネット(The Internet)があるかぎり、悪事は千里をはしっていきます(2)。引用した告発がそのことをはっきりとしめしています。また今回のようなケースであれば、法的な対応も含めてそれなりの経験をもっているはずの救援会がバックアップしてくれるでしょう。場合によっては、ほんのすこしの勇気があれば制度的権力の濫用(らんよう)をうつこともできるのです。

「情報の自由」(3)あるいは「情報の共有」がもつ潜在的なちからは、ことの発端となったリアリティツアーではっきりとしめされました(4)。いまやサボるだけのマスメディアをよそに、個人や諸個人の恊働(きょうどう)によって提供された情報が、司法権力の暴走にまったをかけるという実例がそこで展開されました。それは制度的権力のもつひとりよがりなありように対抗的なちからでありえたとおもいます。あるいはまた、それはわたしたちの関係のなかでさえ存在しうる権力性についての自覚へのたすけともなるでしょう。

ただひとつの情報だけでは、人は判断をあやまりがちです。とくにそれが司法権力がもたらしたものである場合、情報は人を自由にするどころか冤罪(えんざい)におとしいれることにちからを発揮してしまうことさえあります。もちろん、情報がおおくありさえすれば人は絶対にまちがえないということではありません。まちがう可能性をすこしでもへらすことができる、あるいはへらすための条件をととのえることができる、というだけです。

「情報の自由」が「人を自由にする」という主張は、いくつものことなった情報があり、そしてそれがおおくの人にひらかれているという状況において、ようやくいえることです。わたしたちはいまたしかに、そうした状況に存在しつつある。しかし行動なくしてその存在もない。リアリティツアー弾圧とそのごの事件には、そういうこともしめされているのではないかとおもうのです。

さいごに。警察(警視庁)は権力をかさにきた脱法(だっぽう)こういをただちにやめなさい。


(1)「リアリティツアー2」は「反戦と抵抗の祭〈フェスタ〉2008」のプレ企画でした。
(2)ザ・ネットの環境にアクセスできないひとびとにとっては、この可能性は不可能性でしかありません。コンピュータ・サイエンスを基礎とする情報伝達の環境は、アナログな手段と連係することによって「よりまし」なものとなるでしょう。ビラなどの紙のメディアを活用することなどがその一例です。ここで「コピーと破壊!」(copy & destroy!)というスローガンをおもいだすこともできます(むかしのことばでいえば「ガリをきれ!」でしょうか)。この破壊とは、情報提供につきまとうひとりじめと権威主義の破壊のことです。
(3)「情報の自由」をとなえたリチャード・マテュー・ストールマンらのフリーソフトウェア運動がのこしてきた成果が参考になるかもしれません。それらはコンピュータ・サイエンスの分野のものですが、たとえばストールマンおよびGNUプロジェクトがいう「フリーソフトウェアの第二の自由」──「身近な人を助けられるよう、コピーを再頒布する自由」などの主張については、ひとの社会的な関係いっぱんにとっても示唆的であるとおもいます。ソフトウェアのありかたについての主張を利用するというしごとが必要になりますが、たとえばストールマンの「自由か権力か」というエセーの一説 “This oft-overlooked distinction is crucial. Freedom is being able to make decisions that affect mainly you. Power is being able to make decisions that affect others more than you. If we confuse power with freedom, we will fail to uphold real freedom.” などもまた、「自由」ということについてかんがえるとき、あじわいぶかいものがあります。もちろんあじみしているだけではダメなんですが。
(4)くわしい経過については「麻生でてこい!!リアリティツアー救援会ブログ」を参照してください。

まぼろしの「黒ヘル」

2008
12-07
リアリティツアー弾圧:幻の「勾留理由開示公判意見陳述要旨」

勾留満期を前にしての釈放となったので公判はお流れ、つまりこの弁護人の意見陳述もまぼろにしなったんですが、力はいってますね。

んで、やっぱり勾留請求書には「黒ヘルグループ」との妄想てんこもりの作文が展開していたもよう。
被疑者は、黒ヘル構成員であるが、平成20年10月26日、「反戦と抵抗の祭り」<フェスタ08>が呼びかけた「リアリティツアー62億ってどんなだよ。麻生首相のお宅拝見」と称する行動に参加し、同日午後3時03分ころから、東京都渋谷区道玄坂2丁目1番1号ハチ公前広場で、黒ヘルグループ構成員等 約60名とともに、同ツアーへの参加呼びかけ等の事前行動を集会の形態で行った後に、
「被疑者は、黒ヘル構成員であるが」……
「黒ヘルグループ構成員等」……

根拠のない断言がきもちわるい。

そもそも警視庁公安部・東京地検は「グループ」なるものが特定できないから「黒ヘル」とかゆー意味不明のことばでごまかすんだよね。こんな時代おくれ・無根拠のレッテルばりで印象操作できると思ってるあたりが痛々しい。

フェスタってメット=「防衛」が必要なデモやってきたっけ? やってないよ。リアリティツアーではかぶってる人、ひとりもいない。そりゃあ、防衛の必然性なく趣味でかぶる人が個人的にデモに参加する可能性はあるだろう。でもそれはあくまで趣味。こういっちゃなんだけど、メットかぶってジグったりするような根性でフェスタに参加する人はいない。そこまで訓練された規律をもった集団も見かけない。そのことは公安れんちゅうもよ~くわかってるはず。

それに、「ノンセクト」「無党派」とかいうならまだしも、「黒ヘル」とおっかぶせたところで、そのいわんとするところをパッと理解できる人っていまどんだけいるんだろう? 知る人ぞ知るってあんばいで、ほとんどいないんじゃないの? そもそもそーいうラベリングが間違ってるし、公務員のくせして一部の裁判官と一部の好事家だけにイメージしてもらえるようなウソの作文でっちあげて、どうどうと公文書偽造かよ、と。

サギみたいな「シゴト」で税金をどんどん浪費していく公安部門。こういうなんの役にも立たないムダ部門こそまっさきに「構造改革」=解体すべしと思うんです。

隠蔽することばの政治=殺人への加担を自覚せよ

2008
12-04
hituziのブログじゃがー経由回虫経由の提起を受けて:

「だれのことであるのかということ」を問わずに呼称だけすげかえ、その呼称の対象を見ないようにする運動があります。これはだれの心のうちにもやどる運動であり、ときとして排外行動をささえる空気をうみだしもします。

「ホームレス」語法は、単に「浮浪者」のいいかえであるにとどまりません。日雇い労働者こそが野宿者の最大の供給源であった歴史性をおおいかくすものです。定宿(じょうやど)を持たざる者たちに「浮浪の罪」をおしきせて排斥するために、その労働者性すらうばうことがこれらのことばに期待されているとも考えられます。軽犯罪法は「働く能力がありながら職業に就く意思を有せず」ときめつけられるなら、「一定の住居を持たない者で諸方をうろついたもの」を犯罪者扱いせよ、と主張しています。いいのがれはできないでしょう。わたしたちはこのような破廉恥(はれんち)な法を放置しながら、隠蔽(いんぺい)のことばの政治に加担してきたのです。

野宿者とは野宿労働者です。立ちん坊が労働者であったように、日雇い労働者や「労務者」(1)が労働者にほかならないのと同じように、全野宿者はみずからの労働によってのみ喰うほかない労働者です。そしていま、いわゆる「非正規」「非典型」の雇用にいそしむしかない人間たちが路上へと放逐(ほうちく)されています。あるいはまた「家庭」内の暴力などの理由によって「家」を出ざるをえなかった人々(しばしば「家長」の労働力の再生産を無賃でになってきた女性)も、無宿の領域を部分的にかたちづくってきました。いうまでもないことですが、かれ・かのじょらの労働者性は、「市場」にかなうその稼働性(かどうせい:就労が可能であるかどうか)によってすべてをはかることはできません。

ほとんどすべての野宿者が不労所得者(ふろうしょとくしゃ)でないことはあきらかです。単身者であろうと、かつて家庭単位の活計のもとに生きてきたものであろうと、野宿者は労働によって生きてきたし、生きています。カントリ・エサトリなどは、こんにち的なことばでいうならリサイクル的労働にほかならず、野宿者はなおそうした労働によって生きながらえています。しかしいまやこの労働すら窃盗として裁き、うばいとろうとするおそるべき動きが顕在(けんざい)化しつつあります。多くは自治体所有とされる資源ゴミへの所有権の設定は、野宿者だけでなくバタ屋・くず屋もまた犯罪者化する機能を発揮していくでしょう。

野宿者の由来とその労働者性を隠蔽し、「働かざるもの喰うべからず」という虚妄の論理に正当性があるかのように瞞着(まんちゃく)するために、「浮浪者」「ホームレス」などと人はいうのです。しかしそれらのことばは状況をあらわすものにすぎません。だからわたしたちは、「労働市場」の裁定から排除される野宿者や障害者を殺していくことへの加担を拒否しようとするなら、状況にいたる背景をも包含することばをあえて使う必要があります。

野宿者とは野宿労働者です。「ホームレスの人」なのではありません。障害者は、健常者によって害をなすものと決めつけられ、そうして逆に健常者がしいる害を受苦(じゅく)させられる、その意味において障害者です。ただひとりで身体的な障害を受容して障害者なのではありません。

差別者どもよ。わたしのなかにすくう差別者よ。そう指呼(しこ)する/されることによって、わたし‐たちがなにものであるかを自覚することからはじめるべきでしょう。何をはじめるのか? それは一人ひとりが考えるべきことです。

(1)「労務者」ということばの歴史的差別性については、松繁逸夫「《労務者》概念と差別の起源」に分かりやすくまとめられています。

ウェッブページで総ルビのじっけん

2008
12-01
知行(ちこう)合一(ごういつ)、ルビ修業(しゆうぎよう)いってみっかーつーことで……

作業(さぎよう)(れい)日本(にほん)アナキズム運動(うんどう)文庫(ぶんこ)情報(じようほう)資源(しげん)取扱(とりあつか)いについて

ひー! XHTMLのソースがスパゲッティ! ウェッブページで使(つか)った漢字(かんじ)にすべてルビをふる作業(さぎよう)はかなりシンドイ。(むず)かしくはないんですが、労力(ろうりよく)がかかりますねえ。

組版(くみはん)(もの)のみなさまにはお()かりいただけるはずですが、そもそも(かみ)媒体(ばいたい)での(そう)ルビの組版(くみはん)じたい、それなりに手間(てま)がかかります。InDesignなどのGUI(グラフィカル・ユーザ・インタフェース)をそなえたアプリケーション・ソフトウェアを使(つか)おうと、TeXのようなマークアップ(けい)のソフトウェアを使(つか)おうと、めんどくさいものはめんどくさい。

で、XHTMLとCSS(カスケーディング・スタイル・シート)によるルビ(ぐみ)はさらに労力(ろうりよく)がいるなー、と実感(じつかん)。しかも作業(さぎよう)(れい)とこのログ記事(きじ)ではグループルビに()げこんでいるので、モノルビで()もうとすればもっとすごいことに……。

※以下、ルビ組サボリ

しかも作業中、そーいえば紙媒体でのルビ組って、慣習的に拗音の級数(あるいはポイント、つまり字の大きさ)を下げないけれど、ウェッブページでそれをやっちゃうと音声読み上げソフト利用者にはたまらんよなーとか、同様に音声読み上げソフトにかかれば歴史的かなづかいの音読みも意図しないものになるよなーとか、いろいろ疑問がわきあがってきました。

うーん、漢字中毒者、隘路にはまりこむ。というか、総ルビをみずからに課せば漢字使わない方向に行きますねこれ。


:D

Author:noiz
vivu anarkiisma komunismo!

ちかごろ

けんさく

せんでん

Guilty for Brutal Pigs! Release All Protesters RIGHT NOW!

Free the Belgrade anarchists!

ふせん


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