おれたちゃ廃墟を怖れねえ──ドゥルーティ
“おれたちゃ廃墟を怖れねえ”
ブエナベントゥーラ・ドゥルーティ インタヴュー
『トロント・スター』紙のピエール・ヴァン・パーセンによる取材
1936年9月、アラゴンにて
「おれらにしたらさ」、ドゥルーティはいう。
「ファシストどもを完膚なきまでぶっつぶすことが重要なの。おお、政府のかわりにな。」
「死ぬまでファシズムと戦う政府なんか、世界中のどこにもねえよ。ブルジョワジーは手にしてた権力がぐらつきゃ、その権力をなんとか保つのにファシズムに頼るってわけだ。スペインのリベラルな政府とやらはずっと、ファシスト部隊を力のないものにしておきたかったんだ。妥協したり時間稼ぎしたりするかわりにだよ。それが今じゃ、その反乱軍の方にホイホイついていこうって連中が政府のなかにいやがるんだから。」
ここでドゥルーティは笑った。
「こういってもあんたには分らないだろうな。労働者の運動をつぶすために、現在の政府はいまもこの反乱軍を必要としているかもしれねえんだ。」
「おれたちに必要なもんは分かってる。スターリンのせいで中国とドイツの労働者がファシストの蛮族どもの犠牲になってるが、それも自分たちの平和と平穏のためにって、そんなソ連が世界のどこかあってもおれらにゃまるで意味がねえ。おれたちは、たぶんこれから起きるヨーロッパの戦争の前に、スペインのいま、ここで、革命を欲してるんだ。おれたちの革命のせいで、ヒットラーとムッソリーニはロシア赤軍全軍よりおれらのことをおそれてやがる。おれたちはドイツとイタリアの労働者階級に、ファシストをどう扱えばいいかって一例を示してるんだ。」
「世界中のどんな政府にも、リバタリアン革命への援助なんか期待できねえな。ここ最近の状況からしたら、おれたちのものってことになってる政府だってまったくあてにできたもんじゃねえ。」
「しかし」とパーセンが口をはさんだ。
「きみは瓦礫の山のうえにすわることになるよ」
ドゥルーティは答えた。
「おれたちはいつだって貧民街や屋根裏部屋でくらしてきたんだ。これからもどうやっていけばいいかぐらい分かってるつもりだ。だからこのことは忘れてほしくないね。おれたちゃ建設もできるんだ。スペインのここにある広場や街、それにアメリカやほかのどんなところでだって、こういうものはおれら労働者がつくってきたんだろ。おれたち労働者はこういうのをとっぱらって別のもんを建設することだってできる。もっといいものをな! おれたちゃ廃墟をぜーんぜん怖れねえ。おれらはこの大地を継承するんだ、間違いねえ。ブルジョアジーが歴史の舞台から退場する前に、連中の世界をぐちゃぐちゃにしていきてえんだったらやりゃいいんだよ。おれらはおれらのなかに新しい世界を育ててるんだし、その世界はこの瞬間にも成長してんだからさ。」
[訳註]
ブエナベントゥーラ・ドゥルーティ インタヴュー
『トロント・スター』紙のピエール・ヴァン・パーセンによる取材
1936年9月、アラゴンにて
「おれらにしたらさ」、ドゥルーティはいう。
「ファシストどもを完膚なきまでぶっつぶすことが重要なの。おお、政府のかわりにな。」
「死ぬまでファシズムと戦う政府なんか、世界中のどこにもねえよ。ブルジョワジーは手にしてた権力がぐらつきゃ、その権力をなんとか保つのにファシズムに頼るってわけだ。スペインのリベラルな政府とやらはずっと、ファシスト部隊を力のないものにしておきたかったんだ。妥協したり時間稼ぎしたりするかわりにだよ。それが今じゃ、その反乱軍の方にホイホイついていこうって連中が政府のなかにいやがるんだから。」
ここでドゥルーティは笑った。
「こういってもあんたには分らないだろうな。労働者の運動をつぶすために、現在の政府はいまもこの反乱軍を必要としているかもしれねえんだ。」
「おれたちに必要なもんは分かってる。スターリンのせいで中国とドイツの労働者がファシストの蛮族どもの犠牲になってるが、それも自分たちの平和と平穏のためにって、そんなソ連が世界のどこかあってもおれらにゃまるで意味がねえ。おれたちは、たぶんこれから起きるヨーロッパの戦争の前に、スペインのいま、ここで、革命を欲してるんだ。おれたちの革命のせいで、ヒットラーとムッソリーニはロシア赤軍全軍よりおれらのことをおそれてやがる。おれたちはドイツとイタリアの労働者階級に、ファシストをどう扱えばいいかって一例を示してるんだ。」
「世界中のどんな政府にも、リバタリアン革命への援助なんか期待できねえな。ここ最近の状況からしたら、おれたちのものってことになってる政府だってまったくあてにできたもんじゃねえ。」
「しかし」とパーセンが口をはさんだ。
「きみは瓦礫の山のうえにすわることになるよ」
ドゥルーティは答えた。
「おれたちはいつだって貧民街や屋根裏部屋でくらしてきたんだ。これからもどうやっていけばいいかぐらい分かってるつもりだ。だからこのことは忘れてほしくないね。おれたちゃ建設もできるんだ。スペインのここにある広場や街、それにアメリカやほかのどんなところでだって、こういうものはおれら労働者がつくってきたんだろ。おれたち労働者はこういうのをとっぱらって別のもんを建設することだってできる。もっといいものをな! おれたちゃ廃墟をぜーんぜん怖れねえ。おれらはこの大地を継承するんだ、間違いねえ。ブルジョアジーが歴史の舞台から退場する前に、連中の世界をぐちゃぐちゃにしていきてえんだったらやりゃいいんだよ。おれらはおれらのなかに新しい世界を育ててるんだし、その世界はこの瞬間にも成長してんだからさ。」
[訳註]
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(ノー)ボーダー・キャンプについてのメモ
洞爺湖サミット反対運動に“キャンプ”が導入されたことは周知のとおりだが、同時に流布されたらしい「大規模キャンプはジェノヴァ以後、エヴィアン・サミットから」とする説明は精確ではない。自治体行政との「協働」が前提とされる「大規模なキャンプ」史の説明としてはそのとおりなのかもしれない。しかし、「オルター・グローバリゼイション」もしくは「反グローバリゼイション」の集団キャンプはすでに90年代末のヨーロッパにあらわれているのである。その名を「ボーダーキャンプ」あるいは「ノーボーダー・キャンプ」という。「オルタな世界」を「いま・ここ」でつくろうとする試みも、当然これらのキャンプで提起され実践されてきたものであり、そうした努力の歴史を「ジェノヴァ以後」までおくらせることはできない。
サミット・ホッパーの一時的なスクウォットが混乱を誘発すると規定し、そうではないベースとして追求される「大規模なキャンプ」が、「治安管理」上は自治体行政との「恊働」を伴わざるをえないのだという一面の強調は、その自治体権力のカリコミに苦しむ「滞在許可証なきもの」(サン・パピエ、シン・パペレス)、ひいてはあらゆる「持たざるもの」の存在を「見えるもの」にしようとするたたかいの意味を後景化しかねない。「不法」のスティグマは対決と連帯なしには投げ返すことはできない。この点からもボーダーをつきぬけようとするキャンプについて補足しておきたい。もちろんだからといって、洞爺湖サミットでの諸キャンプが自律性を確保し、そしてそのためにかなりの努力をはらったということを否定するつもりはない。
2001年の夏、ヨーロッパの社会運動はあらためて「われわれは生きてここにある」ということをしめした。ジェノヴァ・サミットだけではない。ヨーロッパ各地で開催されたEUサミット、WEFサミット、WB会合のすべてが反対闘争に直面した。闘争は、人々のさまざまな被抑圧の状況が〈国家=資本の連合〉によって正当化されていくことへの抗議の意思表示であった。EU統合化の過程でおおくの人間が「非正規」「不法」なものとされていくなかで、ヨーロッパにおける「オルタ・グローバリゼーション」の運動は、このときもまた明確に〈だれ‐も‐不法‐ではない〉(no one is illegal)とうちだした。
この宣告は何年にもわたってくりかえされてきた社会連帯のスローガンである。そしてそのスローガンを身をもって体現したのが、新自由主義者たちのサミットにキッパリと「ノー」をつきつける人々の移動と占拠だったのである。サミットに反対し、おいかける人々のむれの一つとして移動キャンプ=ノーボーダー・キャラバン(パブリックシアター・キャラバン)があり、それぞれが行動と議論の起点となった各地のボーダー・キャンプがあった。「2001年ヨーロッパの夏」の一連の闘争は、サミット・ホッピング(サミットのおいまわし)を戦術の一つとしていた。そしてキャラバンはジェノヴァで弾圧された。
「ノーボーダー」を訴求するボーダーキャンプは、移住労働者との連帯を追求するうごきとともに1998年にあらわれた。集団野営の構想はより以前に存在しただろうし、またその先駆となるものもどこかにあっただろう。社会運動はたえざる共有のもとにあるからだ。ともあれ、それ以後、ボーダーキャンプは幾度となくあらわれることになる。ジェノヴァ・サミット闘争では、カラビニエーリ(国家憲兵=準軍組織)の発砲によってひとりの犠牲者を出してしまったセンセーショナルな事態に目をうばわれがちだが、このジェノヴァでもボーダーキャンプが設営されている。(「ジェノヴァ以前」のボーダー・キャンプについては、noborder network がアーカイヴしているキャンプサイトをみよ)
それにしても、社会運動はつねに他者によってためされる。「オルター・グローバリゼイション」運動が「帝国主義本国」の〈外部=内部〉でまきおこった闘争──たとえばチアパスでのサパティスタの蜂起──によって、はじめて明確に自らを「だれもが」という主体としてかたちづくったように、その「だれもが」につづけて「不法ではない」とさけぶ生存の提起もまた、移住労働者の抵抗史ぬきにはとらえることはできない。(ノー)ボーダー・キャンプを支えてきたヨーロッパの反レイシズム運動の連絡体である noborder network は、EUの歴史とともに「外からきたものたち」=「他者」との直面によって形成されたものでなければならない。そうでなければ “no border, no nation, no prison” などといえるわけがないのである。
なお、(ノー)ボーダー・キャンプはいぜんとしてあちこちで生きつづける。いまやカナダ、USA、メヒコ、トルコなどにも拡散している。国境あるところに(ノー)ボーダー・キャンプがありうるというべきだろうか。
サミット・ホッパーの一時的なスクウォットが混乱を誘発すると規定し、そうではないベースとして追求される「大規模なキャンプ」が、「治安管理」上は自治体行政との「恊働」を伴わざるをえないのだという一面の強調は、その自治体権力のカリコミに苦しむ「滞在許可証なきもの」(サン・パピエ、シン・パペレス)、ひいてはあらゆる「持たざるもの」の存在を「見えるもの」にしようとするたたかいの意味を後景化しかねない。「不法」のスティグマは対決と連帯なしには投げ返すことはできない。この点からもボーダーをつきぬけようとするキャンプについて補足しておきたい。もちろんだからといって、洞爺湖サミットでの諸キャンプが自律性を確保し、そしてそのためにかなりの努力をはらったということを否定するつもりはない。
2001年の夏、ヨーロッパの社会運動はあらためて「われわれは生きてここにある」ということをしめした。ジェノヴァ・サミットだけではない。ヨーロッパ各地で開催されたEUサミット、WEFサミット、WB会合のすべてが反対闘争に直面した。闘争は、人々のさまざまな被抑圧の状況が〈国家=資本の連合〉によって正当化されていくことへの抗議の意思表示であった。EU統合化の過程でおおくの人間が「非正規」「不法」なものとされていくなかで、ヨーロッパにおける「オルタ・グローバリゼーション」の運動は、このときもまた明確に〈だれ‐も‐不法‐ではない〉(no one is illegal)とうちだした。
この宣告は何年にもわたってくりかえされてきた社会連帯のスローガンである。そしてそのスローガンを身をもって体現したのが、新自由主義者たちのサミットにキッパリと「ノー」をつきつける人々の移動と占拠だったのである。サミットに反対し、おいかける人々のむれの一つとして移動キャンプ=ノーボーダー・キャラバン(パブリックシアター・キャラバン)があり、それぞれが行動と議論の起点となった各地のボーダー・キャンプがあった。「2001年ヨーロッパの夏」の一連の闘争は、サミット・ホッピング(サミットのおいまわし)を戦術の一つとしていた。そしてキャラバンはジェノヴァで弾圧された。
「ノーボーダー」を訴求するボーダーキャンプは、移住労働者との連帯を追求するうごきとともに1998年にあらわれた。集団野営の構想はより以前に存在しただろうし、またその先駆となるものもどこかにあっただろう。社会運動はたえざる共有のもとにあるからだ。ともあれ、それ以後、ボーダーキャンプは幾度となくあらわれることになる。ジェノヴァ・サミット闘争では、カラビニエーリ(国家憲兵=準軍組織)の発砲によってひとりの犠牲者を出してしまったセンセーショナルな事態に目をうばわれがちだが、このジェノヴァでもボーダーキャンプが設営されている。(「ジェノヴァ以前」のボーダー・キャンプについては、noborder network がアーカイヴしているキャンプサイトをみよ)
それにしても、社会運動はつねに他者によってためされる。「オルター・グローバリゼイション」運動が「帝国主義本国」の〈外部=内部〉でまきおこった闘争──たとえばチアパスでのサパティスタの蜂起──によって、はじめて明確に自らを「だれもが」という主体としてかたちづくったように、その「だれもが」につづけて「不法ではない」とさけぶ生存の提起もまた、移住労働者の抵抗史ぬきにはとらえることはできない。(ノー)ボーダー・キャンプを支えてきたヨーロッパの反レイシズム運動の連絡体である noborder network は、EUの歴史とともに「外からきたものたち」=「他者」との直面によって形成されたものでなければならない。そうでなければ “no border, no nation, no prison” などといえるわけがないのである。
なお、(ノー)ボーダー・キャンプはいぜんとしてあちこちで生きつづける。いまやカナダ、USA、メヒコ、トルコなどにも拡散している。国境あるところに(ノー)ボーダー・キャンプがありうるというべきだろうか。



