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『悍』第3号の宣伝

2009
10-19
『悍』第3号『悍』第3号に寄稿しました。題して「暴民哭々 近代成立期民衆の〈公怨〉について」。
 新政反対一揆と困民党などの負債農民騒擾のはざまの時期に起きた、ある農村での焼討ち事件を題材にしています。事件にまきこまれた被差別者についてほじくりかえすような内容を含めたため、あえて戸籍名で書いています。
 特集は「暴力燦々」ですが、要請に応えられたかといえば非常に疑わしい。わたしはもとより非暴力主義者ではありませんが、かといって無前提に(あるいは国民主義的に)暴力を礼賛するという根性をもっていないからです。しかし「持たざる者」の蜂起という条件を前提とすれば、やはりある暴力を肯定・支持しなければならない場合があるという思いも持っています。ただし、貧民が国民としてつくりかえられるとき、その暴力については同時に拒絶しなければならないとも考えます。

原稿の前文を引いておきます。
明治改元からおよそ一〇年、神奈川県南のとある農村で地主宅を焼討つ農民暴動があった。死傷者一一人を出したとされるこの事件は、新政による土地所有制の転換がもたらした村落共同体の動揺の極限化として記録されている。事件はまた貧農が強欲な地主を討つ義挙として様々に語られ、加害者側への同情さえ集めた。しかし原形をとどめない複数の死体とその凄惨な記憶がこびりつく共同体の沈痛は、外部からの無責任な言祝ぎで消え去るものではない。人々は同じ場所でその後を生き抜かねばならないからである。貧しさを罪悪視し、圧倒的な富の私有とその相続を是とする社会のありように今も昔も大きな違いがないのだとすれば、富の私的集積に対決しようとした往昔の人々の苦悩は、現在のわれわれをも捕捉して離そうとしない。貧富二元化の矛盾、暴力と秩序との往還、その過程で顕現する差別、そして闘争主体の共同性の内実──本稿では、これら近代成立期の共同体内の相克を見ることを通じ、われわれが今生きる社会をどのように捉えるのかということをも考えてみたい。
(これより以下の部分は、09年10月25日5時30分に、加削が分かるように補訂を行いました。灰色が削除部分、緑色が追加部分です。補訂の主旨は、批判は言説・行為じたいにすべきものとの見地から、また賃金労働者としての自らの立ち位置に照らしあわせ、妥当性を欠いたと思われる部分を直すというものです。

同誌に書くにあたことで問題にぶちあたりました。

・外山恒一なるというファシストを自称する人物と版を同じくしたこと
・千坂恭二なるという鵺的な「戦争肯定」論を吐く輩提起する人物と版を同じくしたこと

わたしは、戦争にもファシズムにも反対です。

前者については、初稿をあげた段階で同時に掲載されることを知りました。後者については、第1号での所論をちゃんと読んでいませんでした。いまも読んでいません。ファシズムや国民社会主義(ナチス含む)の「左派的」性格の解説など、なにを今さらと思っていたからです。第3号を改めて読んでみて、この怠惰を自己批判します。ただそれらのことを事前に知っていたら書かなかったかといえば、それは分かりません。『悍』は政治組織の機関誌ではなく、その書き手は版を同じくすることで即座に同位性をもつわけではないからです。
 両者ともはファシズム擁護ないしその紹介者の立場をとっており、います。当人のウェブサイトによれば、とりわけ外山はムッソリーニに仮託しながら、アナキストに対してファシストへの転向を呼びかける人物です。外山がイタリアのファシズムに依拠しようとするところに、その意図がよく表れています。戦争に敗北したとはいえ、フランコ軍との戦闘と同時進行で社会革命を闘って未完のまま殲滅された「アナキスト革命のスペイン」は、ファシストに転向し、かつまたアナキストへ転向を呼びかける外山にとっては都合が悪すぎるわけです。だから「転向者」に見えるムッソリーニのイタリアを選択せざるをえない。
 他方、千坂はあいもかわらずの超越者的な立ち位置から(バクーニン主義者時代には「宇宙から」ものをいっていた──cf.『歴史からの黙示』)、ファシズムないし国民社会主義についての「社会主義的可能性」を示唆するという、より巧妙な転向への誘い水をまきちらしています。
 なんだかんだいいながら、「思想」としてのファシズムがどのようにありえたとしても、史的現実としてのファシズムが支配的資本の走狗の役割をはたした現実としてのファシズムことはごまかせないはずですその口でその現実を迂回して、ファシズムないし国民社会主義のインターナショナリズムをいうのは人を愚弄する瞞着にすぎません。しかし最近では外山のエピゴーネンのような氏からの影響を示唆する自称「素人」の国民主義者のサークルが東京にも登場しています。
 これをこのまま放置しておけば、事実としてのファシズムないし国民社会主義ナチズムと天皇制帝国主義がはたした現実にもたらした反民衆主義・反階級主義・反インターナショナリズムを、こんにちにおいても蔓延させることにつながるでしょうは容認できません。日本帝国主義本国人として生きざるをえず、いまもそのようにして生きのびていながら帝国主義の打倒を希求する立場としては、いま以上の収奪と差別を前提とする生は耐えがたい。国民主義という枠組みによって階級分断の問題とインターナショナリズムをごまかそうとする煽動はたたきつぶさが登場するのなら、やはり対峙しなければならないとわたしは考えています。¡No Pasarán! とはいえど、そのためには論争が必要なのだと思います。

Trackback

Comment

おはようございます
あれっ

数時間前まで、千坂氏はアナキストの立場を放棄していないのでは、という主旨のコメントがあったのですが、消えてる。

せっかくアルシーノフ綱領やドゥルーティの友にまで言及されていたので、千坂氏がアナキストなのかファシストなのかということも含めて思うところを書くつもりだったんですが、まあ仕方ないですね。

そもそも氏がアナであろうがなかろうが、その「国民社会主義」に親和的な紹介者という役割については認められないというわたしの立場に変わりはありません。

※「ドゥルーティの友」についてはこちらをどうぞ。森川莫人さんによる翻訳が継続中です。
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/fd-contents.html

スペイン革命戦争時に「アナがプロ独できなかった問題」の理解に助けとなるでしょう。それ、問題なのか(笑)。まあでもアナキスト総同盟論(マフノ)、アルシーノフ綱領、「ドゥルーティの友」グループのいくつかの緒言、それから今日につづく綱領主義(platformism)の問題、あるいは1930年代の日本無政府共産党、同じく30年代日本のサンディカリスト陣営における過渡期的議論(山田(のち山口)健助の議論、日本自協内の戦線確立研究会で行われたであろう全国自連「復帰」に向けての組織論論争)などをふまえれば、「前衛」ないし「党」の問題はアナキストの問題としてありえたわけです。というと反発がありそうですが。

このあたりのはなしは「小文字のアナーキズム」「新しいアナーキズム」では打ち捨てられているので、(日本では)「古くて新しい」ものなのかもしれません。とはいえ、ヨーロッパやラテンアメリカでは綱領主義組織はけっこうふえています。いってしまえば、これだって「新しい」動きのはずなのですが、そんなことに関心をもっているのはきっと一部のマニアだけです。例外的なのは労働者連帯運動(東京)によるフォローくらいか。

しかし正直いうと実践抜きの党論議はやや徒労感が…(苦笑)

※※ちなみに日本では Durruti を「ドゥルティ」と表記するのが一般的のようですが、バルセローナ付近のどこかの街(忘れた)の公設図書館の司書に「ドゥルティではなくドゥルーティというんだよ」と撥音をただされたことがあります。

※※※そういえば、イベリア・アナキスト連盟(カスティージャ読みにしようとするとこのブログの禁止キーワードにふれてしまう)のサイトができています。「プロ独」ではなく「入閣」で自殺したかつてのFAIをどう総括しているのでしょうか。
http://www.nodo50.org/fai-ifa/
  • 2009-10-21│05:49 |
  • noiz URL│
  • [edit]
すみません。操作を間違えて消してしまったようです。

『悍』のウェブのリンクから来ました。
千坂氏は鵺的な戦争肯定論者ではなくて、はっきりと革命戦争としての戦争肯定論者ではないでしょうか。彼ははっきりと田母神的な保守反動の戦争肯定論の反革命、反動性を批判しています。
千坂氏の戦争肯定は革命戦争の肯定であり、つまりは革命肯定であり、彼は革命をどのような否定的現象があろうと究極的に肯定する立場を表明しているのだと理解しています。
これは私の深読みかもしれませんが、千坂氏のファシズム擁護とも見える立場は一つの戦略ではないでしょうか。まず、ファシズムの復権により帝国主義とスターリン主義の補完構造に亀裂を入れ、ついでファシズムからアナキズムへの転換を志向するというような。千坂氏がファシズムといってもそれがナチスでもイタリア・ファシズムでもないところに私は興味があります。
アナキズム固有の問題としてみれば、千坂氏がロシアやスペインでのアナキズムの敗北に正面から向き合っていることは否定できないと思います。ロシアではマフノ軍のアルシーノフ綱領、スペインではドゥルティの友を評価している千坂氏の視点は、バクーニン問題を射程に入れれば、その路線を肯定するか否定するかはともかく、アナキストとしての筋は通っているのではないかと思います。
ただ現在の千坂氏がアナキストであるのかどうかはわかりません。最近の発言から推察すると、アナキズムにかなり好意的な保守革命派なのかもしれません。
 植本氏には異論もあり同意しがたい見方かもしれませんが、私は千坂氏は、革命やアナキズムの問題は、氏なりに捨てていないと感じるのです。
ふたたび、おはようございます。
よかった、ひとりごとにならずにすみました。

さて、千坂氏の「一九六八年の戦争と可能性 アナキズム、ナショナリズム、ファシズムと世界革命戦争」(『悍』第1号)はいまだに読んでいません。また3号での議論も素読しただけなので、きちんと読み込んだうえでコメントすべきなのかもしれません。でもせっかくなので、いまの時点で思うことをあえて続けます。

自らの努力によって把握しえたと思いこめるだけの情報がつもればつもるほど、そこから所論をくみたてるというかたちをとり、なにごとかを伝えたくなってしまうという欲望については、わたし自身もまた千坂氏と同じ立場にあります。その意味では、千坂氏が新雑誌に際会して、アナキズム研究ののちに追究してきたのであろうユンガーなり「ドイツにおける左派国民社会主義」なりについてまず紹介しようという性向は、理解できなくもありません。
 が、それにしてもということです。「革命」も「戦争」も、超越的な立場で言及しうるのかという疑問があります。もちろん「現場」はそれぞれにあるはずであり、目に見える「運動」でなければ「現場」ではないというつもりはありません。それでも千坂氏の立ち位置は見えにくい。わたしは臆病な人間です。「暴力」を手段とし、あるいは武装するような勇気も、死ぬだけの覚悟もない。その意味で理論としてのみの極限的な言葉が理解できないのかもしれません。千坂氏の文章を読んでいると、まるでカテキズムをあつかう教師からなにかいわれているような印象を受けます。
 そのような印象だけで決めつけてくれるなよ思われるかもしれませんが、これがわたしの率直な感想です。あえて忖度しようという気になれません。

また、千坂氏の所論だけを坦懐に読むのだとしても、かれの議論からアナキズム(再転換)の「戦略の可能性」を措定することについても、よくのみこめません。たしかにかれのような該博な知識を持つのであろう理論家肌の人間になら、アナキスト運動の現実の敗北のなかからうみだされた組織論争は十分に検討された(る)ものなのでしょう。
 なるほど、ボルシェヴィキとの戦闘、あるいはファシストとの戦闘のなかから生み出された、アナキスト総同盟論や「蜂起した労働者による実効支配」論などを見れば、極限下におけるアナキスト革命にはプロレタリア独裁にいきつこうとする「可能性」さえ眺望できます(それをアナキズムというかどうかはともかく)。そのようなものから敷衍してアナ(→ボル)→「国民社会主義」というような、流麗な?密通回路を即座に見いだしうるものなのか、これがわたしには理解できないわけです。「絶対自由」から「階級独裁」へという射程が、とりわけ1930年代のスペインにおいて現実の問題として存在したということはまだ分かります。ではその敗北をうけて、「階級」から「民族」「国家」に転換すべき必然性はどこにあるのでしょう。
それなら、敗北の残骸のなかにとどまりつつ、そしてそのなかからなにごとかをくみ出せばいいだけなのではないでしょうか。ナチズムにしてもナチス以外のドイツの「国民社会主義」の諸潮流にしても、結局は戦争に敗北したという点で同列です。ファシズム体制といわれるもののうち、同時代で自壊するまで生き残ったのはひとりフランコ政権だけなのではありませんか(アルゼンチンのペロニスタの運動も一時的勝利者として数えるべきかもしれません)。なぜ「国民社会主義」をいちど経由しなければならないのでしょうか。
  • 2009-10-21│06:55 |
  • noiz URL│
  • [edit]
一件削除
ウェルダン穂積という名義での書き込みを削除。理由は以下のとおり。

・マルチポスト
・明示されていたリンク先には、外山関係者とおぼしき人物の個人情報が暴露されている。また全編にわたって外山と関係者に対する人格攻撃が、セクシズムに依拠した内容をともなって羅列されている。

以上、釈明がない場合はウェルダン穂積名義のコメントは問答無用で削除する。
  • 2009-10-23│19:03 |
  • noiz URL│
  • [edit]

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