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手当て、所有、盗み、

2009
12-18
Google News をだらっと見る。すると「子ども手当」の所得制限が云々というヘッドラインだけ目にはいってくる。どうやら年収二千万円レベルの人々には手当せぬ、いや八百万円だとぬかしおる。くだらぬ。親なり世帯主なりにカネをわたすくらいなら、子供を一己(いっこ)の人格として遇すればいいではないか。子供にカネをわたしたらろくなことに遣(つか)わないとすぐにお小言も聞こえてきそうだが、それならば大人がよりましなことにカネを使うのかと考えてみれば実に笑止千万の沙汰である。そも、大人こそがしょうことなしに遣ってきたカネとはいったいなんなのか。そのカネはどうやってうみだしたのか。
 貧乏人であるせいか、「所得」だとか「所有」だとか「福祉」だとかということにはひとなみに敏感であるつもりだ。だが、asexual 指向の(ただし性欲はある)単身者として類的滅亡だけが予定されている立場としては、こうした「親子」にわたるくだらぬ私有の共軛にはヘドがでそうな気分になる。なぜ、〈我と汝〉ではく〈我と我の予備軍〉なのか。こと「経済」単位としてみるならば、「家族」とは家長のみのが人格として起ち、家長以外は家長に従属するその所有物にほかならない。そしてその家長は次代の家長および家長に従属する人格を生産するために、「家」の成立に腐心する。だからかれにとっては「子ども手当」は「親手当」でなければならない。近代的所有制を所与の前提としながらも、また財産の相続に血道をあげながらも、「家族」とはつまるところかれにとっての再帰的な財のひとつにほかならないのだ。
 そもそもカネにまつわる「家」の単位化の背景には、近代的家族の定位による個の捨象という逆説をものともしない私有の擁護がある。世に行われる私有とは一代限りのものではない。自己の「はたらきへの(正当な)報酬」は自己の分身に還元してよい。報酬としてえたカネをなんに遣おうが勝手だ。なるほど、そのペイが真に独立した個人の才覚によるものなら、そうした「おれのものはおれのもの」という論理は是認されるかもしれない。しかしそれなら経済主体としての権能をそなえるおのれひとりが死ぬときに、私的所有の結晶であった財をひらいて共有化させ、もってそれをいわば「生活保障のための社会資本」と転化せしめ、子供を〈共〉に養育するための原資・原蓄とする。このほうがよほど人間存在の持続にとって効率的で「市場」のおめがねにもかなうはずだが、多くの人はそうしない。自由経済などウソもいいところで、あるのは私的経済だけである。どうやら人間は血脈への郷愁と言葉にならぬ確信めいたものがあるらしい。どうしてもわが子に血と汗と涙の成果(これは他人のそれを収奪したものでありうる)をひきつがせたいようなのである。結果の平等を悪平等として、おのれの稼ぎはおのれひとりの才覚によるものと自負し、民主主義の社会は機会の平等を実現しているのだから「優勝劣敗」の結果を感受せよとうそぶくブルジョア精神の持ち主どものあわれな自己瞞着はともかくとしても、階級の再生産は厳然たる事実であり、機会の平等などどこにもありはしない。つまり人はうまれおちる場所を選べないのだから、叛乱に起つ道理がはじめからあるのだ。
 現代世界において私有はもちろん法認されたものであるけれども、その淵源のほとんどすべてが盗みである。日本でいうならば、まず天皇家の財産が「維新」によりながらどのようにつくりだされたかを考えてみればよい。あますところなく奪い、なおまた奪う。シラスべき天皇が私有の頂点にたつという痴態を見せたのだから、翼下の天皇主義者どもの乱行たるや目をおおうばかりの惨状であったのもむべなるかな。あるいは、土地を利潤の源泉としてきた人間の経済のカラクリを思えばよい。先占という盗みこそが現代に連綿とつづく私的所有の歴史的基礎であるならば、われわれの世界は盗みの正当化によってこそ秩序を保ってきたのだというほかはない。領土争いは泥的どうしの臆面もない喧嘩にすぎぬ。すぎぬとはいえ、その喧嘩のせいでたくさんの人間が死んだ。いまも死んでいる。そうした所有をめぐる秩序とその裏面の死によって、われわれの世界が律されている。そうして律によって生起する秩序を乱すものは憎まれ、恐れられ、排斥されてきたのだ。暴動とは、この秩序=多数者の律にたいする、他方によるその他方にとっての自律的な叛乱にほかならない。
 人はその財を子に相続させようとする。なんによってか血統にもとづく共犯者をつくりだそうとする。それは生得的なリスク分散指向によるものというよりも、無自覚なおびえによるものではないのか。盗みの血族的共有という犯罪への無自覚な畏怖こそが、私有の相続をうみだす動力となるのではないのか。人はわが子がかわいいという。だがほんとうのところは自分がかわいいのだ。窮迫する貧乏人に子をかわいいと思う余裕はない。わが子かわいさとは、所有がもたらす自愛にほかならない。その自愛ゆえにこそ、所有の根拠たる自らの労働、あるいはただ存在するだけのこと(不労)に対する報酬をわが身一代限りの所持とせずに、分身として所有しているつもりの子への相続を望むのだ。だがこれは、私的所有を正当化する論理であるはずの「自らの労働(もしくは不労)を所有するものとしての自己=個人」というテーゼの否定である。ここに近代的所有のもつ魔力がある。個人の措定とその閥族化への欲望が近代的な支配と収奪の基礎的な条件であるならば、われわれは近代とその所有ということのもつ意味をいまいちど考える必要がある。

いまさら私有財産制・近代的所有制を否定し、集産主義や共産主義をたからかにうたいあげたところで、この「歴史の終焉」後の世界にあって時代錯誤もはなはだしいと嗤(わら)われるのが関の山だ。だが、わたしはいまなお本気で(自由な)共産主義をほっしている。たんにダラ幹になって得をしたいとか栄耀栄華をきわめたいとか人に気を遣われるなにものかになりたいとか、そういうことではない。いうことをきかないやつは皆死ねという裏返しのエリート主義たるポルポトになりたいわけでもなく、支配者たる地位を相続させることに汲々とするチュチェ主義者にかぶれたわけでもない。そうではなくて、人の盗みに加担し、また自ら盗み盗まれるという関係のなかで生きるのがつくづくいやだというだけだ。簡単な話ではある。
 自己の労働(ないし不労)を自らのものとだけ囲いこみながら、しかも自ら認定した「子」にのみその成果をうけわたす。これは養育ではなく、所有の支配そのものである。そうした支配さえも打ち砕く〈共に‐ある〉ことへの展望をどうしたら持ちうるか。「ある」ことの、あるいは「あろう」とする前段階的な実践(といえばごたいそうなものに聞こえるが、ようはあしもとも覚束ぬ試行)は、無前提に〈共に‐なる〉ことが可能であるかのようにパラ色の宣伝だけをして逃げるという欺瞞ではありえない。だがそうした実践そのものが、いまはほとんど困難になりつつあるようにも思える。人はすぐに脚光のあたるところに群がって暗闇には目もくれない。いったいなにが「共に」なのか。本来バラバラであるはずの人間は、どのようにすれば自己瞞着による「共同(翼賛)」という罠を粉砕しつつ、それでも「ある」という地平にたどりつくことができるだろうか。
 そのためにこそ、「持つ」ことのありようから問はなくてはならないと考える。史学のひそみにならえば、伝統的な所持ないし占有と近代的所有とはことなる概念として扱われてきたが、われわれがあたりまえのことだと思わされてきた近代的所有の現実を史的現前の連なりとしてとらえ、そのなかにさえある多様な差異と実態をふまえつつ、別の「ある」ことの可能性を構想することが肝要だ。「ある」とは存在の態様のことであり、その態勢をたもつために必要な「持つ」ことでもあるという連環をなす。この環をどのように開くのか。ただ、排他的な「自儘(自侭、じまま)」への対峙を意図するにせよ、たんに前近代へ遡行して古きよきなにかを幻視するだけではそれはかなわぬ夢となる。過去への訪問は、現在をとおした過去への対決でなければならない。所有は、いまだみぬ実践のなかでこそ「揚棄」されうべきものとしてわれわれの眼前にある。

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