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A13

2010
05-24
A誌13号。拙稿ではしつこく「運動」における主体性の問題、主体間の関係性について検討しています。G8がらみで救対のことにふみこんで書いてるんで、大方には「防衛」上の観点からの批判もあろうかと覚悟しています。
 関連して、「のびのびイルコモンズデモ」のプロパガンダに胚胎した(無自覚な)差別性について批判もしましたが、それへの反批判があるなら期待して待とうと思います。が、被弾圧者のうち仲のよいお友だちだけをクローズアップさせた身びいきに正当性などあろうはずがないのですけどね。というようなことも含めて、運動過程での組織化の失敗と、それにからんだ救対の敗北について言及しました。
 わたしはあの運動でほとんどすべてにおいて「負けた」(自分に)との総括に収斂しかかっています。もちろん自分以外の誰かとの競争での勝ち負けとかいうくだらぬゲームごっこについての判断としてそう考えているのではありません。自らの惰弱ぶりに負ければそれでゼロかといえば、そうとも思いません。つまづくことにより考えるきっかけを誰あろう自分自身に与えられるからです。つまり問題はもっと根深いもので、社会運動に際会しての自ら(自分たち)の力の行使についての自覚と分析が不足していたのだという当然の認識にまでたどりつくことになります(力を行使しないことが反権力・反権威主義なのではありません)。そうして敗北はきちんと認めて追及しないといつまでたっても同じことの繰り返しで、一人相撲の域をでることができない。繰り返しが悪いとはいわないけれども、せめて他山の石として参照できるものになればなと思っています。いや、「運動2.0」「反権威主義」などとはしゃぐばかりで、あるいは傍観者をきめこんでただのりするばかりで自らを批判的に省みることをしなかった人々にこそ検討してもらいたいと思っています……だからそういうのが気負いすぎだって? そうかもしれません。
 ともあれ、社会運動における力の行使(たとえ自分は不当な力を行使しない、だから「反権威主義♪」と思っても、集団的な力動を掌握する人々の行動を黙許・追認するという意味で力動の構造を支える一因子として同様、つまり「反権威主義」ならぬ「半権威主義」を実践したのだという自覚が必要)という視覚から書いたつもりですが、それで特集の「権力」に沿うことができたのかどうか心もとないところです。でもほんとは反権威主義者なんかどこにもいねえんですぜ、ということは声を励ましていいたい。反権力なんぞとぬかしさえすればてめえが反権力者だといわんばかりの販促活動にゃ泥をぶっかけつづけます。これは自戒をこめていうんですが、分析やら思想だのというものは行動が伴ってこそ意味があるのであって、その逆じゃない、ってあたりまえのことですね。
 しかしほんとにしつこいなとわれながら呆れますが、あとは有志総括向けに公表用の文章を書いて、サミット反対運動でトホホの記録はようやく一区切り。になればいいな。(これまで書いたものに批判があればなお検討しつづけます)

あ、ページ数が爆発して240ページを超えたため、今号は1500円です。たけえしブあつい。

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