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貧者とともに生きた人

2008
09-22
上笙一郎/山崎朋子『光ほのかなれども──二葉保育園と徳永恕』(現代教養文庫)
※ネットに書影なし、スキャンする手間もなし

 ようやく見つけた。先週の土曜日、仕事の準備などでちょっとだけ事務所に顔を出したときに立ち寄った近所の古本屋で発見。ここの古本屋は品揃えに意思が感じられるので(いやどんな本屋にしても意思はあるはずだけれど)、たまに覗いている。朝日新聞社、光文社文庫、そしてこの現代教養文庫(版元・社会思想社は92年廃業)と、刊行されてはすぐに絶版されるという行路を繰り返したらしい数奇な運命のこの本、貧乏人してみればそれなりによい値段がついていたものの、探し物でもあったのでさっさとレジに向かった。
 二葉保育園は、1900年に東京三大スラムの一つ、四谷鮫河橋(鮫ヶ橋)につくられた貧民幼稚園である二葉幼稚園が改組されたもの。
 徳永恕はその二葉保育園/幼稚園の二代目の園長で、まさにびんぼったれの子供たちに尽くした行いの人。
 ちなみに東京のいわゆる貧民窟(スラム)は関東大震災で最後的に消えてなくなった(震災以前から細民街への移転の動きあり)。現代の貧乏人の住まいは、野宿者の小屋掛け・テント掛けの集住空間のほか、ネットカフェ、レストボックス、ゲストハウスなどに拡散した観がある。ドヤ(木賃宿)はすでに昔日の様相と異なって、海外バックパッカー向けの安宿に様変わりしているところも多い。
 
§ 追 記

 それにしても、小林多喜二『蟹工船』のようなボルシェヴィキのプロパガンダに満ちた政治主義小説を「ブーム」として販促するなら、貧乏人のために奔走した実践者の献身的な業績を丹念に追いかけた本書のような仕事こそ再刊につなげてほしいと希う。けれど「多喜二ブーム」が結局は売らんかなの書店現場の要請にもとづくものであるなら、これは見当違いのごまめの歯ぎしりにすぎない。それに一労働者としては、「識者」の片言を捉えて商機とする書店人の意気やよしというべきかもしれない。しかしそうした手法でなければもはや「売れない」というところに出版不況の末期症状が顕れているのではないか──いや、「売る」ということは元来そうしたものであるのか。あるいはこれも従来からの事情であるかもしれないが、「識者」の紹介や書評・イベント仕掛けによってようやく成立する「売れている本の読書」ということも、本来個的なものであるはずの「読書」にとってはどうかと少しく疑問に思うところだ。
 ところで、「多喜二ブーム」に同舟する言説が「ブーム」を「格差社会」の反映だというのはご愛嬌といったところだが、そのほとんどがボルシェヴィキの党派性を不問に付す態度に愕然とする。『蟹工船』は本当に「格差問題」の先駆的表現であったのか。そうではあるまい。宮本百合子は後に「文学におけるレーニン的党派性の貫徹」と多喜二を賞賛したが、『蟹工船』が持つ事大主義の過誤は、作中人物に「ロシアちつとも恐ろしくない國」といわせるところに最も色濃く現れている。作品発表の往時において、ロシア・ボルシェヴィキがクロンシュタット反乱や農民反乱を根絶し、「革命」派の他党派を殲滅していったことはすでに明らかであった。しかしかかる「革命」の内実への一片の省察もなく多喜二が「革命」を称揚できたのも、ボルシェヴィキの文化運動の目的が「文化主義」ではなく「政治主義」のプロパガンダを第一義としていたからこそ導き出されたものと解釈する以外にない。したがって『蟹工船』の創作としての問題は、歴史的現実への省察もなく、徹底的にボルシェヴィキの党派性と決定論によって表現を塗り込めていく「目的意識」のうちにある。労働者は現在的にとりあえず喰えていても常に「不安定さ」からくる不安がつきまとうため、その不安を整理するために格差論を消費していかざるをえない。そうであるのに作品の本質的問題を回避し、ただひたすら「ブーム」を格差反映論へと還元する態度は、畢竟この格差論消費に寄生する意味収奪運動の一翼を担うものであろう。
 貧しい労農の生活実感との主義者的な立場からくる乖離。プロ文の根拠とは逆説的にその乖離にこそ存した。この乖離がなければプロパガンダは展開できないわけで、それはある意味で宿業のわざである。多喜二の同時代者としてロシア・ボルシェヴィキ革命を徹底的に批判してきたはずのアナキストの側の文学にしても、この点では同列であった。たとえ「労働者あがり」の手による小説にしても虚しい。小説という枠組みそのものが一つの権威ではあるものの、そもそも本より飯と酒!の労働の現実の前には、その権威は力を発揮しようがないからである。インテリゲンチャを呪詛したアナキスト後藤謙太郎の詩文も、いったい誰が読んだのか。むしろ貧困の現実に生きる人間にとって、文学(文芸)は膏血をよけいに搾り取っていこうとする「外部」の一つでしかない。極端な窮乏のもとでは無文字とならざるをえない生活の現実の前に、文学者たちは挫折しなければならない(だから小説家としての二葉亭四迷の一度目の死は必然であった)。当事者文学としての貧者の文学はついに未完のまま終わるほかないのである。

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