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Punk is Dead が希望であるとき

2008
09-28
Acclaim Collective の9月21日付ニュースに書かれている記事を、思わず唸りながら読んだ。

「自分たちのことは自分たちでやる」──つまり大手音楽資本・産業を介在させない自律的な〈文化=社会〉運動としてパンクを捉える流儀にしたがってきた「同志」の提起に、僕は少なからず意を強くしている。Acclaim 主催のH君は、レーベルやディストロをただ「こなしてきた」だけの人じゃない。意に沿うギグにせっせと出かけては「出店」してギグでの情報拠点を持ち込み、あるいは「仲間」の「社会的な運動」へもコミットしてきた人だ。「自分たちでやるんだ」という流儀にあっては、情報を集約・交換するという営為はどんなに小さくても重要なことだ。それはマスのコマーシャリズムやマーケティングに収奪される「文化」から背反する根拠となるからだ。その意味で機会をつくってきたH君および Acclaim の努力には心強いものがあった。

もちろんどんな人間も完全無欠ではない。H君にしても人知れずの苦労や失敗、それに伴う他者からの賛同・批判さまざまに抱えてきたものと思う。僕自身、「ポリティカルな」主張を掲げるクラストパンクのバンドに参加してきた日々のなかで、いつだって「正しく」「うまく」やってきたと思い上がることはできはしないのだ。むしろ失敗や試行錯誤の繰り返しを続けてきたなかにこそ今があるのだし、そもそも「正解」はないとさえ思っている。とはいえ、DIYパンクにとって重要なことは、どれだけ自分たちのことを自分たちでコントロール(自主管理)できるかという一点に集約される。

長くなるが、Acclaim の「転換」宣言の半分ほどを引用する。
私たちが「越えられない問題」とは何か?

Acclaim全体の方針としては、「音楽だけのパンク」をさらに排除していくことになるでしょう。私たちは、音楽だけでは何の社会的価値もないことを知りながら、常にそのことに沈黙しているような気がします。しかし、パンクが今の今まで続いてきた理由は、常に音楽以外のもの、音楽の周囲で何かが起こってきたからです。Acclaimにとって、 パンクは絶対に反国家・反資本主義です。そしてそれは、「イメージとしての反」ではなく、また、政治的な「運動」に限定されるものでもなく、私たちの「現実」と「現実」を繋ぐものとして機能してこそのものです。やはり、パンクは常に、私たちが単純に問題を理解しないための武器であってほしいし、私たちが話さないことを話し始める武器であってほしいし、私たちがなぜそれをしなぜそれをしないかを考えるための武器であってほしいし、このシステムが進むにつれて奪われた私たちの「仕事」を取り戻すための武器であってほしいし、私たちが生きる希望を取り戻すための武器であってほしい。パンクはこうした武器になったときに初めて社会的価値を獲得します。ここに私たちの「それぞれの現実」はありません。

人と人との「現実」がない「音楽だけのパンク」ーーAcclaimは、それこそが私たちが「越えられない問題」だと思っています。つまり、Acclaim の転換期というのは、以上のことから「より小さな世界」を求める、ということです。心情的には今、パンクの可能性は希望が1%、絶望が99%です。しかし、その1%を追求する情熱はますます燃え上がっています。今まで多くのパンク/ハードコア・バンドが「Punk is Dead」と唄ってきた意味がようやくここにきて理解できたような気がします。彼らが唄った 「Punk is Dead」とは、その1%にかける断続的な希望なのだったと。

(Acclaim Collective「今後のAcclaimについて」)
「イメージ」や「政治的な運動」に限定されない、僕たち自身の諸「現実」をつなぐための武器としてパンクを再解釈しようとする宣言に、心から「異議なし!」と応えたい。

思えば、僕自身がハードコアパンクの世界に戻ったきっかけは、9・11以後の侵略戦争に抗するデモのなかでの出会いにある。契機がこうだから、僕が「シーン」に再び自己投企する回路となったバンドは「ポリティカル」と見られてきただろうし、またバンド=自分たちの方でもそのことをあえて避けなかった。しかし「音楽だけではない」という態勢をとってきたつもりで、それでどれだけのことをできたのかといえば前述のとおり逡巡しないわけにはいかない。あえていえば、「ポリティカルであること」にのみ終始しすぎてきた嫌いさえある。いうまでもないことだけれど、自己充足の態度が純化すれば、他者と対話していく努力から遠ざかることになるからだ。

日本のパンクは細分化されている。これは日本に限らないとは思うが、細分化されたパンクの多くが「音楽としての」それぞれに自閉していることも事実だ。とりわけ巨大資本の論理に毒された類いのパンクの特殊性は、〈文化=社会〉運動とは決して交雑しようとしないところにある。〈文化=社会〉運動、あるいは〈政治〉的運動と合流しようとするパンクスは、「インディペンデント」「アンダークラウンド」のなかにあっても絶対少数派だ。こうした日本での状況は、スクウォット(住宅占拠)運動と結合した欧州DIYパンクの文化的・政治的な自律化との道行きと異なり、〈文化〉の自律性の経済的根拠・土台を欠いてきた環境に求められよう。自主管理の空間を欠いた社会という背景を持つ日本のパンクは、場の自律を追求するにはあまりにも経済的に過重なコストと文化的な事大主義に取り巻かれている。この意味で、毛利嘉孝『はじめてのDiY──何でもお金で買えると思うなよ!』は、肯定的なものばかりを捉え事態を楽観的に描きすぎている(ハウツー本的な激励もないよりはマシだけれど)。

しかし Acclaim が提起するように希望がまったくないわけではない。DIYパンクはこの日本でも絶滅してはいなし、パンクに限らず自生的な「何か」の動きは絶えず繰り返されている。希望をつなぐという目的からすれば『はじめてのDiY』のような机上の提起もいいだろう。

〈われわれ〉は社会的なものとしての「パンクの死」を宣告しながら、その再生にかける希望のただなかで「生きる」ことを追求する。単に「インディペンデント」「アンダーグラウンド」であることへの充足から跳躍すること、それは「現実」と「現実」をつなげようとする努力のうちにはじまる。そうした〈生=社会的営為〉に内包される「武器」としてのパンクの発現を求める動き=〈運動〉のなかで、「Punk is Dead」のパンク、「threat」(脅威)としてのパンクの再生が期されることになると僕は信じている。

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